【謝罪しない知事】はばタンPay+情報漏洩を「ぶら下がり」で済ませた斎藤元彦──危機管理の倫理崩壊
目次
マイナンバー流出を「担当部局が発表」で済ませた知事
2025年11月4日の兵庫県定例記者会見で、はばタンPay+をめぐる情報漏洩について、斎藤元彦知事はこう述べました。
「今回、詳細な内容が確認できたということで、担当部局の方で記者発表させていただいた」
「県民に様々な情報を提供するのは適切」
しかし、これは「担当部局の発表に任せた」という逃避にすぎません。
マイナンバーを含む個人情報漏洩という極めて重大な事故を、知事自身が公的な場で謝罪も説明もしなかったのです。
「ぶら下がり」で済ませた“形式的お詫び”
斎藤知事が謝罪の言葉を口にしたのは、公式会見ではなく、会見後の「ぶら下がり取材」でした。
「ぶら下がり」とは、報道陣が廊下などで行う立ち話的な取材形式。
正式な記者会見とは異なり、
- 事前通告も
- 配布資料も
- 記録映像も
残らない“軽い対応”に過ぎません。
この形式で済ませた時点で、県民への正式な説明責任を放棄したと言わざるを得ません。
会見直前にHP更新、「冒頭で説明せず」
菅野完氏が指摘した通り、
この日の会見75分前(12時)に、県公式サイトで**情報漏洩に関する「第4報」**が公開されていました。
「今日の12時に公開できるなら、知事自らスライドを作って発表すべきではないか」
——菅野完氏
それにもかかわらず、知事は冒頭17分を「自己PRスライドの読み上げ」に費やし、情報漏洩の件には一切触れませんでした。
この行動は、「説明責任よりも自己演出を優先した」との批判を免れません。
企業なら“即・緊急会見”が常識
マイナンバーを含む個人情報漏洩は、民間企業であれば即日、社長自らが謝罪会見を開くレベルの重大事故です。企業の場合、企業側が緊急会見を開催して、記者の皆さんに集まってもらって、冒頭に謝罪と、詳細な内容の説明があるものです。
「〇〇社社長が深々と頭を下げて謝罪」
——それが社会的責任を果たす“当たり前の形”です。
にもかかわらず、兵庫県のトップである斎藤知事は、「担当部局に任せた」「ぶら下がりで対応した」と繰り返すだけ。
これは単なる対応の遅れではなく、危機管理の原則そのものを理解していない行動です。
危機管理の欠落が示す“統治倫理の崩壊”
危機対応において最も重視されるのは「トップの姿勢」です。
それは単なる言葉の問題ではなく、組織の信頼を再構築するための倫理的行為です。
しかし、斎藤知事の行動は次の3点で根本的に誤っています。
| 項目 | 本来あるべき対応 | 実際の対応 |
|---|---|---|
| 謝罪の形式 | 正式会見で冒頭に謝罪 | ぶら下がりで軽く発言 |
| 情報公開 | 会見で説明・質疑応答 | 会見直前にHPで発表 |
| 危機認識 | トップの責任として謝罪 | 「担当部局が対応」で回避 |
つまり、行政の信頼を守る立場であるはずの知事自身が、「謝罪すべき対象」であるという認識を持っていないのです。
「謝罪を避ける癖」が示すもの
はばタンPay+の件に限らず、斎藤知事はこれまでも、
- 第三者委員会の違法認定 → 「適法と考える」
- 百条委員会の指摘 → 「真摯に受け止める(が、反省なし)」
- パワハラ10件認定 → 「襟を正せば問題なし」
という“形だけの受け止め”を繰り返してきました。
今回の「謝罪を避けた」対応は、その延長線上にある統治倫理の崩壊現象です。
これは「広報ミス」ではなく「統治の放棄」
トップが謝罪しない組織は、もはや危機を管理する能力を失っています。
「ぶら下がりで謝ったから十分」
その瞬間、兵庫県は“信頼される行政”の資格を失った。
政治とは、説明と責任の言葉で成り立つものです。
斎藤知事が「謝罪」を避け続ける限り、県民との信頼関係は、もう修復できません。
斎藤知事の対応は、自分のプライドを守りたいだけで、県民の安全など全く頭に無い。自分のための県政運営で、県民不在と言っても過言ではありません。
もはや“県民の代表”ではなく“自己防衛の象徴”
本来、知事は「県民の代表」であり、危機のときほどそのリーダーシップが問われます。
しかし斎藤知事の言動は、
・説明を拒み
・謝罪を避け
・責任を転嫁し
・信頼を失い
結果的に、「県民の盾」ではなく「自分の盾」として県政を利用しています。
この構図は、単なる失言や判断ミスではなく、政治が県民のために機能していない状態=県民不在の政治です。
もはや、県民のための県知事では無く、自己満足のために知事と言う地位を利用しているとしか言えない状況です。自分さえ満足なら、職員に自分の嘘の辻褄合わせをさせて、職員が不満に感じても、県民の情報が危険に晒されても何も気にしない危険人物と言わざるを得ない。





