「民主主義のツールを壊した」——第三者委員会を否定した斎藤知事の重大責任

第三者委員会の本来の意味——民主主義の「安全弁」

第三者委員会とは、行政の不正や不祥事に対し、中立・独立した立場から調査・判断を行う制度です。
本来は、「行政自身の調査では信用できない」と判断された場合に設置されるもので、民主主義社会における説明責任・検証責任の最終ラインを担います。

そのため、委員会が示した結論を無視するというのは、「自らが設置した審査制度を破壊する」ことに等しい行為です。

「県民の信頼回復のため」と言いながら、報告を無視

赤澤記者の質問の核心はここです。

「県民の信頼を回復するために設置した第三者委員会の報告を聞かないなら、
県民の信頼を失墜させたのと同義ではないか?」

これは、民主的統治の根幹を問う質問でした。

斎藤知事は、里見議員(2024年6月県議会)に対しても、

「第三者委員会は県民の信頼を回復するために設置した」
と明言していました。

にもかかわらず、報告書が自分に不利な内容になると、

  • 「違法無効とされた懲戒処分」→撤回せず
  • 「知事・副知事の指示の可能性」→認めず
  • 「報告書の尊重」→実質的に拒否

という行動を取り、第三者委員会の存在意義そのものを否定しました。

「知事が設置した」事実を否定しようとする不自然さ

調査員の松谷弁護士は記者会見で明言しています。

「知事が決めて、我々は発足しました。だから報告書の結果が不利だったから聞かないというのは、あり得ない。」

この発言の意味は極めて明確です。
——「設置者=責任者=受け入れる当事者」である以上、報告結果を無視することは制度の自己否定だということ。

それに対して知事は、

「県として予算措置を含めて対応した」

と、主語を“県”にすり替えて責任を曖昧化しました。

「知事が設置した」と明言した弁護士のコメントを否定せず、「県として対応した」という曖昧な答弁を繰り返すことで、個人責任の回避と言葉のトリックを使っているのです。

「だけ?」が象徴した、説明ゼロの県政

赤澤記者が、第三者委員会の調査結果に関する質問に対し、知事が例によって

「真摯に受け止めておりますね。」

とだけ答えた瞬間に放った言葉——

「だけ?」

これは単なるツッコミではなく、県政トップとしての最低限の説明責任を放棄していることへの痛烈な指摘です。

なぜ「だけ?」が重いのか

「真摯に受け止める」が内容ゼロのテンプレ化している

知事はこれまで、どんな問いにも

  • 真摯に受け止める
  • 適切に対応してきている
  • コメントを差し控える
    としか答えず、**具体的な説明は0%**でした。

赤澤記者はそれを完全に見抜いたうえで、

「それだけで済ませるつもりですか?」

という意味での「だけ?」を投げています。
これは知事の言葉が“説明”ではなく“逃げ”であることを白日の下に晒した瞬間でした。

「真摯に受け止める=受け流しているだけ」という県民感覚を代弁

赤澤記者の「だけ?」は県民の気持ちを代弁しています。

県民が感じていることは、まさにこれです。

  • 結局何の説明もしていない
  • 何も認めない
  • 何も改善しない
  • 責任も取らない
  • でも「真摯に受け止める」とだけ言う

これを、簡潔な一言で突きつけたのが「だけ?」でした。

行政トップの説明責任を問う“最短の言語”

政治記者が使う言葉としても、あの「だけ?」は異例でした。

理由は、説明責任の不在を最も短い言葉で指摘したからです。

通常は、
「ご説明いただけますか?」
「具体的に教えてください」
となるところを、
「だけ?」
と一言で切り込んだことで、知事の答弁の空虚さが一瞬で可視化されました。

これは、政治報道の現場でも語り継がれるレベルの“象徴的瞬間”です。

行政の崩壊を象徴する言語的サイン

「だけ?」という短い言葉は、行政学的にも重要な意味があります。

行政学では、行政トップが

  • 説明しない
  • 情報公開しない
  • 外部チェックを拒む
  • 第三者の指摘を無視する
    状態を“統治の空洞化”と呼びます。

赤澤記者の「だけ?」は、まさにこの
統治の空洞化を象徴する“サイン”
となりました。

あの瞬間、知事の答弁が「破綻した」ことを誰もが理解した

「だけ?」のあの瞬間、県民・視聴者・記者の誰もがこう思ったはずです。

「あ、もうこの知事は説明する意思が無いんだ」

つまり、赤澤記者の一言によって、知事の説明責任の破綻が完全に可視化されたと言えます。

「真摯に受け止める」——もはや意味を失ったテンプレ答弁

赤澤記者が繰り返し「聞き入れていない」と指摘しても、知事は「真摯に受け止めている」と答えるだけでした。

しかし、「真摯に受け止める」と言いながら、

  • 違法認定を否定し、
  • 指示疑惑を否定し、
  • 報告書の内容を実質的に無視する、

という対応を続けている時点で、この言葉は**“受け流すための免罪符”**になっています。

行政倫理上、「真摯に受け止める」は“改善意思の表明”を意味しますが、斎藤知事の場合、それが実質的な行動に全く結びついていない
つまり、「真摯さゼロの形式表現」になっているのです。

民主主義のツールを壊した代償——「第三者委員会はもう機能しない」

赤澤記者が最後に語ったこの指摘は、まさに本質です。

「民主主義を担保するツールである第三者委員会という仕組みを、知事自ら壊してしまった。兵庫県では二度と第三者委員会はできなくなった。」

第三者委員会は「県民が行政を信頼できるかどうか」の試金石です。
それを行政の長が自ら否定した今、

  • 今後、県が不祥事を起こしても誰も第三者委員会を信じない
  • 弁護士や専門家が県の調査委員を引き受けなくなる
  • 県職員も「どうせ報告は無視される」と諦める

という連鎖が起こります。

これこそ、赤澤記者が言う「民主主義のツールを壊した」状態です。

「県民の税金で設置した調査機関を無視」——道義的責任を問う声

第三者委員会3件にかかった総費用は4,856万円
これは、すべて県民の税金です。

報告書を無視するのであれば、

「不利な結果は受け入れない=県民負担で“自己弁護”をしただけ」
という構図になります。

赤澤記者が述べた

「県民の負担で行われた調査を無視するなら、4,280万円は知事が払うべきだ」
という主張は、行政倫理としても筋が通っています。

説明責任を拒否した瞬間、県政は信頼を失った

第三者委員会とは、「行政の信頼を守る最後の砦」です。
その報告書を無視することは、行政自身が信頼を放棄したことと同義です。

「真摯に受け止める」と言う言葉は、もはや空虚。
「県として対応」と繰り返す姿勢は、個人責任の回避。

兵庫県政が今抱えている最大の問題は、「不祥事」そのものではなく、その後の説明責任を果たさない知事の態度にあります。