関心の薄い県民が「考え始めた瞬間」こそが、変化の始まりである
目次
はじめに
近年、兵庫県政を巡って、国会審議、消費者庁の追及、県議会での議論、さらには街頭でのプロテストなど、さまざまな動きが続いている。
それでもなお、「県政は変わらない」「未だに斎藤支持者が残っている」という声を耳にすることがある。
しかし、県政が変わらない最大の理由は、抗議が足りないからでも、追及が弱いからでもない。
本当の理由は、多くの県民が、まだ自分の頭で考える段階に入っていないことにある。
多くの県民は「無関心」ではなく「判断材料を持っていない」
よく「無関心層」と呼ばれる人たちがいる。
だが、実際には彼らの多くは、政治に無関心なのではない。
- 会見動画を見る時間がない
- 国会審議や県議会中継は難しそう
- 誰の話が正しいのか分からない
こうした理由から、判断を保留しているだけの人が大半だ。
つまり彼らは、
「考えたくない人」ではなく
「考える材料を持っていない人」
なのである。
「論破」や「対決」は、判断を遠ざける
政治的な対立が激しくなると、
- 相手を叩きのめした
- 矛盾を突きつけて黙らせた
- 支持者、反支持者が激しく応酬した
といった場面が増える。
しかし、このような光景は、関心の薄い県民にとってはこう映る。
「よく分からないけど、揉めている」
「どっちも感情的だ」
「関わらない方がいい」
対決は、考えるきっかけではなく、距離を生む。
特に、強い支持者が存在する政治家の場合、論破や糾弾は支持者の防衛反応を強め、結果として対立だけが激化する。
それは問題の解決でも、県政の正常化でもない。
無関心層は「議論」を見ていない。「空気」を見ている
薄関心層がXで接触しているのは、
- 論理の中身
- 事実関係
- 法解釈
ではありません。
彼らが見ているのは、
- 言葉のトーン
- 攻撃性
- 対立の激しさ
- 誰が怒っているか
つまり**内容ではなく「空気」**です。
感情的な応酬が続くと、彼らの頭の中ではこう処理されます。
「また揉めてる」
「どっちも極端」
「関わると疲れそう」
この時点で、思考の入口が閉じます。
思考停止は「支持」ではなく「委任」になる
ここが非常に重要です。
無関心層は、
- 斎藤知事を積極的に支持している
わけではありません。
しかし、
- 考えるのが面倒
- 情報が対立だらけ
- 判断材料が見えない
状態になると、人はこうします。
「よく分からないから、
今のままでいいか」
これは消極的な現状維持であって、結果として知事側に有利に働く。
つまり、
- 感情的対立
→ 思考停止
→ 現状維持
→ 権力側が守られる
という流れが生まれます。
感情的議論は「疑問」を潰す
本来、薄関心層が持ち得る問いは、非常に素朴です。
- 「なんでそんな判断をしたんだろう?」
- 「ちゃんと説明してるのかな?」
しかしX上の感情的な論争は、
- 善悪二元論
- 勝ち負け
- 敵味方
に話題を引きずり込みます。
そうなると、
問いを持つ前に、立場を選ばされる
これが最大の問題です。
立場選択を迫られた瞬間、薄関心層は離脱します。
民衆蜂起は「感情の爆発」ではない
一般に民衆蜂起や大規模な社会変動は、
怒りが先にあって、人々が衝動的に立ち上がった
と誤解されがちですが、実際は逆です。
実際の順序はこうです
- 現実を冷静に観察する
- 説明や正当化に矛盾を感じる
- 「このままではいけない」と自分の頭で判断する
- その結果として、怒りが共有される
- 行動(蜂起・運動)に転化する
👉 怒りは原因ではなく、結果です。
本物の怒りは「考え抜いた後」にしか生まれない
衝動的な怒りは、
- 一過性
- 扇動に左右されやすい
- すぐ疲弊する
一方で、民衆蜂起に至る怒りは、
- 理由を説明できる
- 他者と共有できる
- 時間をかけて蓄積される
つまりこれは、
理性的な判断が限界に達したときの感情
です。
「先に怒りがあるのではなく、
現実を冷静に見つめ、自ら考えた末」
これがなければ、持続する社会的行動にはなりません。
県民対話集会とは
- 怒りを煽ることではない
- 蜂起を呼びかけることでもない
その一段前、
人々が「考え尽くす」ための条件を整えること
です。
これは遠回りに見えますが、実は歴史上、最も確実な道です。
変化は「納得」ではなく「違和感」から始まる
人は、誰かに納得させられた時よりも、
- 説明が曖昧だった
- きちんと答えていない気がした
- なぜそう判断したのか分からなかった
こうした小さな違和感を覚えた時に、初めて考え始める。
「よく分からないけど、何かおかしい」
この感覚こそが、政治における最初の一歩だ。
県民が「自分の頭で考える」瞬間とは何か
重要なのは、
- 誰かが勝ったか負けたか
- どちらの主張が強かったか
ではない。
説明責任が果たされているかどうかを、
県民自身が判断しようとした瞬間
そこから、変化は始まる。
その時、県民はこう問い始める。
- なぜその判断をしたのか
- 県民にとって何が良かったのか
- 同じことが起きたら、また同じ対応をするのか
この問いが生まれた時点で、政治は「他人事」ではなくなる。
静かな場こそが、民主主義を前に進める
声の大きさや怒りの強さが、必ずしも民主主義を前進させるわけではない。
必要なのは、
- 落ち着いた場
- 普通の言葉
- 普通の県民の視点
そして、
逃げずに説明できるかどうかを、
静かに見せること
この積み重ねだけが、関心の薄かった県民を、少しずつ「考える側」に引き寄せる。
おわりに
県政が変わる瞬間は、誰かが論破された時でも、誰かが叩きのめされた時でもない。
関心の薄かった県民が、
自分の頭で考え始めた時
その静かな変化こそが、最も確実で、最も強い力である。






