定例記者会見で見えた「説明責任の空洞化」―なぜ斎藤知事の説明しない姿勢は県民に届かないのか
2026年1月21日の斎藤元彦兵庫県知事の定例記者会見は、内容そのものよりも、「説明のされ方」において、県民にとって極めて重要な示唆を含んでいた。
会見を通して浮かび上がったのは、特定の政策判断の是非ではない。
質問に対して、どのように答え、どのように答えなかったのかという点である。
本稿では、専門的な法律論ではなく、「普通の県民の感覚」で見たときに、なぜこの会見が“おかしい”と感じられるのかを整理する。
目次
国政の会見は把握し、自身が問われた国会審議は把握しないという違和感
会見の冒頭で明らかになったのは、次の対比である。
斎藤知事は、高市首相が解散総選挙の大義について述べた記者会見については、「報道等で拝見した」と繰り返し述べた。一方で、自らの県政運営が違法ではないかと名指しで議論された衆議院予算委員会での答弁内容については、「詳細は承知していない」と答えた。
この姿勢は、普通の県民の感覚からすると極めて奇妙に映る。
国政のトップの政治的説明よりも、自分自身の行政判断が国会で問題にされた事実の方が、兵庫県知事としては重いはずだからである。
これは知識量の問題ではなく、何を優先して把握しようとしているのかという姿勢の問題である。
昨年3月26日の発言を、今も訂正しない理由
斎藤知事は、昨年3月26日の記者会見で「3号通報が保護対象かどうかについては様々な意見がある」と発言している。
しかしその後、
- 消費者庁の見解
- 第三者委員会の報告
- 百条委員会に書面を提出していた弁護士自身の発言撤回
によって、その前提はすでに崩れている。
それにもかかわらず、今回の会見でも知事は、その発言を訂正も撤回もせず、「これまで申し上げてきた通り」と繰り返した。
県民感覚で言えば、ここにあるのは難しい判断ではない。
当時の説明が不正確だったなら、
「その後の検討で認識を改めた」と説明すれば済む話である。
それをしないこと自体が、県民の不信感を積み上げている。
「最終的には司法で判断」と言いながら、裁判の構造を説明できない
斎藤知事は、文書問題について繰り返し「最終的には司法で判断される問題」と述べてきた。
しかし今回の会見では、
- その裁判の原告は誰なのか
- 県がどのような立場で争うのか
といった、司法判断を前提とするなら最低限説明すべき点について、一切答えることができなかった。
「司法で判断される」という言葉は、本来は責任ある説明の一部である。
それが、具体性を伴わないまま使われるとき、それは説明ではなく責任回避の定型句に変わってしまう。
兵庫県だけが設けた「保護要件の具備」という独自条件
会見で最も深刻だったのは、公益通報者保護法に関するやり取りである。
斎藤知事は、通報者探索禁止について「法の趣旨に沿って要綱を定めている」と繰り返した。しかし、
- 公益通報者保護法
- 法定指針
- 消費者庁の見解
- 第三者委員会の指摘
いずれも、「3号通報において、探索行為の禁止に『保護要件の具備』を条件とする規定は存在しない」としている。
それにもかかわらず、兵庫県の要綱だけが、全国で唯一とも言える厳しい条件を設けている。
さらに問題なのは、その要綱の担当課がどこかを、知事自身が明確に答えられなかった点である。
担当部署も条文根拠も説明できないまま、「適法である」と断言する姿は、県民から見れば極めて不自然だ。
なぜ「異常さ」が県民に広く伝わらないのか
この会見を通して明らかになったのは、斎藤知事の発言が、
- 具体を語らない
- 根拠を示さない
- しかし結論だけは断定する
という型に完全に固定化しているという事実である。
ただし、この異常さは、会見を全文見ない限り気づきにくい。
多くの県民は、短いニュース要約や見出しだけを目にする。
その結果、
「何か問題が指摘されているらしいが、
知事は適切に対応していると言っている」
という曖昧な印象だけが残る。
県民対話集会がなければ、この違和感は共有されない
この「異常さ」が県民に広く伝わらない最大の理由は、県民が知事に対して、直接・具体的に質問し、回答を聞く場が存在しないことにある。
現在、県民が知事の言葉に触れる経路は、
- 定例記者会見の一部を切り取ったニュース
- 要約された見出し
- 行政発表として整えられた文書
にほぼ限られている。
しかし、今回の会見で明らかになった違和感は、一問一答の積み重ね、言葉のすり替え、論点回避、「これまで申し上げてきた通り」という反復の中で、初めて浮かび上がる性質のものである。
要約記事や短い映像では、「質問に答えていない」という事実そのものが削ぎ落とされてしまう。
「説明しているように見える」ことが、最大の障壁になっている
斎藤知事の会見対応は、
- 声を荒げるわけでもない
- 明確な拒否をするわけでもない
- 一応は言葉を返している
という点で、一見すると「説明している」ように見える。
しかし実際には、
- 何を根拠にそう言っているのか
- どこまで理解しているのか
- 分からない点はどこなのか
が一切明らかにされていない。
この構造は、質問する側が食い下がらなければ可視化されない。
だからこそ、記者会見という限られた空間だけでは不十分なのである。
県民対話集会は「糾弾の場」ではなく「可視化の場」である
県民対話集会の必要性は、知事を糾弾するためでも、対立を煽るためでもない。
目的はただ一つ、
県民が普通の言葉で質問し、
知事がその場で、自分の言葉で説明する過程を
県民自身が目撃すること
にある。
専門用語を使わずに説明できるのか。
過去の発言との矛盾をどう整理するのか。
分からないことを「分からない」と言えるのか。
その一つ一つが、県民にとっては判断材料そのものになる。
「判断できない県民」を生み続ける構造を変えるために
今の兵庫県政では、
- 県民は「賛成か反対か」を迫られる
- しかし、その前提となる説明が十分に与えられていない
という歪な状態が続いている。
県民対話集会は、賛否を決めさせる場ではなく、判断できる状態を取り戻すための場である。
この場がなければ、
「何が問題なのか、正直よく分からない」
「でも知事は適切だと言っている」
という曖昧な認識が、今後も繰り返し再生産されていく。
県民対話集会は「民主主義の最低限」である
説明責任とは、文書を出すことでも、「適正・適切・適法」と繰り返すことでもない。
疑問を持つ県民の前に立ち、逃げずに説明することである。
今回の記者会見で感じた違和感を、一部の人の違和感で終わらせないために。
県民対話集会は、今の兵庫県において、最も欠けている民主的プロセスであり、最も早く実現すべき取り組みである。
問われているのは法解釈ではなく、説明する姿勢である
この会見で問われているのは、難解な法律論ではない。
- 分からないことを分からないと言えるか
- 過去の発言を検証し、修正できるか
- 県民に理解できる言葉で説明しようとしているか
その姿勢こそが、行政トップに求められる最低限の条件である。
普通の県民の感覚でこの会見を見れば、「説明しているようで、何一つ説明していない」そう感じるのは自然なことだ。
そして、その違和感こそが、今、最も丁寧に共有されるべき事実である。






