斎藤支持者は「加害者」なのか―説明責任を果たさない知事が生み出した“もう一人の被害者”

兵庫県知事をめぐる一連の問題では、批判する側と擁護する側の対立が激しくなっています。
とりわけX(旧Twitter)では、斎藤支持者による感情的・論理破綻した擁護が目立つようになりました。

しかし、ここで一度立ち止まって考える必要があります。
斎藤支持者は本当に「加害者」なのでしょうか。
それとも、別の見方ができるのでしょうか。

本稿では、斎藤支持者の言動を「人格」ではなく、構造と心理から読み解きます。

本来、説明すべきなのは誰か

大前提として確認すべきことがあります。

第三者委員会によって違法性や不正行為が認定された場合、
まず説明責任を負うのは、認定された当事者本人です。

今回で言えば、それは 斎藤元彦 です。

しかし現実には、

  • 認定内容について具体的な反論をしない
  • どこが事実誤認なのかを説明しない
  • 名誉毀損などの法的手段も取らない

という状態が続いています。

この「説明の空白」こそが、現在の混乱の出発点です。

なぜ支持者の主張はバラバラで歪むのか

斎藤支持者の主張を見ていると、次のような言説が乱立しています。

  • 「第三者委員会は興信所みたいなものだ」
  • 「怪文書だから公益通報ではない」
  • 「裁判が終わるまで問題はない」
  • 「左翼が騒いでいるだけ」

これらに共通しているのは、
知事本人の公式な説明や戦略に基づいていないという点です。

つまり、
👉 大将が戦術を示さないまま、支持者だけが前線で戦わされている

その結果、支持者はそれぞれが独自解釈で理屈を組み立てざるを得ず、
論理の整合性が崩れ、感情的になっていくのです。

これは支持者の知性の問題ではなく、置かれている状況の問題です。

なぜ「情弱」に見えてしまうのか

本来、支持者が拠り所にすべきなのは、

  • 知事本人による
    • 事実関係の整理
    • 認定への具体的反論
    • 一貫した説明

です。

ところが、斎藤知事は

  • どこが事実誤認なのかを示さない
  • 認定のどの部分が不当なのか説明しない
  • 法的手段(提訴)にも出ない

つまり、公式の「正解」が一切提示されていない

その結果、支持者はどうなるか。

👉 自分で理屈を作るしかなくなる
👉 断片的な情報や都合の良い解釈に頼る
👉 制度否定や極端な基準(「裁判が出るまで無効」など)に逃げる

この過程で、
外から見ると「情報を理解していない人」=情弱に見えてしまう
という現象が起きます。

これは「能力」ではなく「役割の逆転」

重要なのはここです。

  • 本来、説明を組み立てるのは権力者(知事)
  • 支持者は、その説明を信じるかどうかを判断する立場

ところが今は、

  • 知事が説明しない
  • 支持者が代わりに説明役を引き受けている

という役割の完全な逆転が起きています。

この状態で支持者がどれだけ頑張っても、

  • 情報は断片的
  • 主張は人によってバラバラ
  • 論理は後付けになりがち

になるのは、ほぼ避けられません。

「情弱」と呼ばれること自体が二次被害

さらに厄介なのは、

  • 知事が説明しない
  • 支持者が無理に擁護する
  • その結果、外部から「情弱」と嘲笑される

という二次被害構造です。

支持者は、

  • 説明されていない
  • しかし信じてきた
  • それを守ろうとしただけ

なのに、
最終的には「情弱」「バカにされる側」に押し出されてしまう。

これもまた、
トップが説明責任を果たさないことの帰結です。

斎藤支持者が「情弱」に見えてしまうのは

  • 斎藤支持者が「情弱」に見えてしまうのは
    👉 知事が明確な説明をしないため
  • 支持者が自分で理屈を作らざるを得ない状況に追い込まれている
  • これは支持者個人の問題ではなく、構造の問題
  • 本来責任を負うべき人が沈黙していることが、
    支持者を最も苦しい立場に追い込んでいる

だからこの現象は、
「支持者が劣っている」話ではなく、
「説明責任が放棄された政治の末路」

と捉える方が、はるかに正確です。

支持者も「被害者」と考える理由

この構造を整理すると、次のように見えてきます。

  • 知事は説明しない
  • しかし批判は日々強まる
  • 支持者は「信じたい気持ち」と「不安」の板挟みに遭う

その結果、

  • 制度そのものを否定する
  • 認定の意味を矮小化する
  • 強い言葉や罵倒で自分を守ろうとする

こうした行動に出てしまう。

これは心理学でいう認知的不協和への典型的な反応です。
「自分の判断が間違っていたかもしれない」という不安を直視できないため、
事実よりも信念を守る行動に傾いてしまうのです。

この意味で、
斎藤支持者もまた、説明責任放棄の被害者
と捉えることは十分に可能です。

それでも、支持者に“見返り”はない

さらに深刻なのは、支持者がどれだけ擁護しても、

  • 知事から労われるわけではない
  • 炎上の矢面に立つのは支持者個人
  • もし最終的に政治的責任が問われた場合、守られる保証もない

という点です。

それでも擁護を続けてしまうのは、

  • ここで引いたら「今までの自分」を否定することになる
  • 沈みかけた船でも、降りる決断が最も難しい

という、極めて人間的な心理によるものです。

本当の問題は「支持者」ではない

ここまで整理すると、対立の構図は明確になります。

  • 県民:説明されない被害者
  • 職員:統治不安を抱える被害者
  • 支持者:説明の空白に放り出された被害者

そして、その中心にあるのが、
説明責任を果たさないトップの存在です。

支持者を罵倒しても、
この構造が変わらない限り、問題は解決しません。

おわりに

斎藤支持者の言動が過激化・非論理化しているのは事実です。
しかしそれを「愚か」「悪意」と切り捨てるだけでは、
問題の本質を見誤ります。

必要なのは、

  • 感情的な殴り合いではなく
  • 誰が説明すべき立場にあり
  • なぜ混乱が生じているのかを
  • 構造として可視化すること

民主主義にとって本当に重要なのは、
誰かを叩き潰すことではなく、説明責任が果たされる状態を取り戻すことです。

その視点を失ったとき、
支持者も批判者も、等しく傷つくことになります。