「県民の利益」とは何か――斎藤知事擁護論に決定的に欠けているもの
「斎藤知事の公務が妨害され、県民の利益が損なわれている」
最近、このような主張をSNS上で目にすることが増えている。
しかし、こうした主張には決定的に欠けている視点がある。
それは、「では斎藤知事は、県民にどのような利益をもたらしているのか」という問いへの答えだ。
知事が県をPRすることで、
— Jordan192 (@tKQGH2MFFp84597) February 1, 2026
県民の可処分所得は増えましたか?
子育て世代の負担は軽くなりましたか?
医療・福祉・教育は改善しましたか?
将来への不安は減りましたか?
斎藤知事が県民にどんな利益をもたらしてくれるのでしょうか?…
目次
公務は目的ではなく、手段である
まず整理しておきたいのは、公務そのものは目的ではないという点である。
公務とは、県民の生活をより良くするための手段に過ぎない。
したがって、
- 公務が滞っている
- 公務が妨害されている
という事実が仮にあったとしても、それだけで直ちに「県民の利益が損なわれている」とは言えない。
重要なのは、その公務によって、
- 県民の生活はどう改善されるのか
- どの層に、どんな恩恵があるのか
- それは数値や施策として説明できるのか
という点である。
「県のPR」は県民の幸せに直結しない
擁護論の中でよく使われるのが、
「知事自らが兵庫県をPRする機会が奪われている」という主張だ。
しかし、PRは成果ではなく手段である。
PRによって、
- 県民の所得は増えたのか
- 若者の流出は止まったのか
- 子育てや医療、福祉の負担は軽減されたのか
これらが示されない限り、「PRができない=県民の不利益」という論理は成立しない。
PRが目的化した瞬間、それは県民不在の政治になる。
抗議の「態様」を問題にして、本質を避けていないか
人格否定や誹謗中傷、危険行為が許されないことは言うまでもない。
しかし、それを強調することで、
- なぜ抗議が起きているのか
- 何に対する抗議なのか
- 知事自身に説明責任はないのか
という本質的な問いが後景に追いやられてはいないだろうか。
抗議のやり方だけを問題視し、
抗議が生まれた原因から目を背ける姿勢は、
民主主義において健全とは言えない。
知事自身の言葉で語られない「県民の利益」
最も重要なのはここだ。
斎藤元彦は、県民にどんな利益をもたらすのか。
県民の幸せにつながる、どんな未来を描いているのか。
これを、
- 知事自身の言葉で
- 具体的な施策や優先順位として
- 県民に向けて説明した場面を
多くの県民は「聞いたことがない」と感じている。
抽象的なスローガンや、「適切・適法・適正」といった定型表現では、
県民の生活がどう変わるのかは見えてこない。
「支持者が可哀そう」という感覚が生まれている理由
今の状況を見ていると、斎藤知事の支持者は「戦っている側」でありながら、本来一番守られるべき立場から放り出されているように見える。
彼らは、
- なぜ知事を支持しているのか
- この県政が続くことで兵庫県はどう良くなるのか
- 将来、どんな姿の兵庫県を目指しているのか
これを知事本人の言葉で与えられていない。
その結果、支持者は「批判に反論する役割」だけを背負わされ、前向きな未来を語る材料を何一つ持てないまま、孤独な闘いを強いられている。
「せめて支持者にだけでも語れ」は、極めて自然な要求である
政治において、支持者とは本来、
- ビジョンを共有し
- 価値観を確認し
- 未来像を一緒に描く存在
であるはずだ。
ところが現状では、
- 知事は自分の正当性の説明に終始し
- 過去の行為の正当化に多くの言葉を費やし
- 将来の兵庫県像を語らない
この状態で、「支持者は支えて当然」「批判は不当だ」と言われても、支える側はあまりにも報われない。
せめて支持者にだけでも、『自分は兵庫県をこうしたい』と語るべきではないか。
これは甘えではなく、政治の基本である。
大将が前を向かない軍は、疲弊する
今の支持者の姿は、
- 批判に反論し
- 説明責任を代行させられ
- しかも未来を語れない
という、極めて消耗戦的な立場に置かれている。
一方で、
斎藤元彦本人は、
- 自分のやりたい発信だけを続け
- 支持者が何に苦しんでいるのかを語らず
- 支持者をどう導くのかも示していない
これでは、支持者は「仲間」ではなく、防波堤や盾として使われているように感じても不思議ではない。
ビジョン不在の政治が生む「孤独」
支持者が孤立する最大の理由は、敵が多いからではない。
味方同士で語れる未来が無いからである。
- 「この県政が続けば、5年後どうなるのか」
- 「何を良くして、何を我慢するのか」
- 「誰のために、どんな覚悟でやるのか」
これが語られない限り、支持者は「信じる理由」を他人に説明できない。
結果として、
- 内向きな論理
- 攻撃的な言葉
- 批判者への敵視
へと追い込まれていく。
それは支持者自身の問題ではなく、語るべき人が語らないことによって生じた歪みだ。
本当に支持者を大切に思うなら
もし本当に支持者のことを大切に思うなら、
知事がすべきことは一つしかない。
- 自分を守る言葉ではなく
- 批判をかわす言葉でもなく
- 兵庫県の未来を語る言葉を出すこと
それを聞いて、
「それなら支えたい」と思うかどうかは、
県民一人ひとりが決めればいい。
今のように、
何も語らないまま支持者だけを前線に立たせる政治は、
あまりにも残酷で、不誠実である。
県民が知りたいのは「守る理由」ではない
県民が求めているのは、
- 知事を守るための理屈
- 抗議を非難するための言葉
ではない。
県民が知りたいのは、
「この県政が続いた先に、自分たちの生活はどう良くなるのか」
という、ただそれだけである。
それに答えないまま「県民の利益」を掲げることは、
言葉の消費に過ぎない。
問われているのは姿勢である
県民の利益を本気で語るのであれば、
- 具体的に何を実現するのか
- 何を優先し、何を切り捨てるのか
- その責任をどう負うのか
これを正面から語る必要がある。
それがない限り、
「県民の利益」という言葉は、
都合の良い盾として使われていると受け取られても仕方がない。
今、問われているのは抗議する側の品位ではなく、
権力を持つ側の説明責任と誠実さである。






