ヒトラーもムッソリーニも「合法的」に選ばれた ― 民主主義は有権者の判断力でしか守れない

「独裁者はクーデターで生まれる」そう思っている人は多いかもしれない。

しかし歴史を見れば、それは事実ではない。

ヒトラーもムッソリーニも、国民の支持と、合法的な手続きを経て権力の中枢に立った。

民主主義は、制度があるだけでは守られない。
それを運用する有権者の判断力が失われたとき、民主主義は内部から静かに壊れていく。

ヒトラーとムッソリーニは「選挙と議会」を通じて誕生した

まず、事実を確認したい。

ヒトラーの場合

  • ナチス党は選挙で第一党となった
  • 大統領ヒンデンブルクが合法的に首相に任命
  • 授権法も議会の正式な手続きで可決

ムッソリーニの場合

  • ファシスト党が議会で勢力を拡大
  • 国王が合法的に首相に任命
  • 議会が権限集中を承認

彼らは「不法」に権力を奪ったのではない。
民主的・合法的な枠組みの中で権力を集中させたのだ。

民主主義を壊したのは制度ではなく「判断停止」

重要なのは、これらの国に選挙制度や議会がなかったわけではないという点である。

問題だったのは、

  • 有権者が事実を冷静に検証しなくなった
  • 批判を「敵」と見なす空気が広がった
  • 「この人だから大丈夫」という思考が支配した

という国民側の判断停止だった。

民主主義は
「選ばれたから正しい」
「評価は変わらない」
という言葉が出始めた瞬間から、崩れ始める。

「評価は変わらない」という言葉の危険性

最近、斎藤知事のことでもよく聞かれる言葉がある。

「何も問題ない」
「評価は変わらない」

この言葉は一見、個人の感想に見える。
しかし民主主義の視点では、非常に危険だ。

それは、

  • 新たな事実が出ても
  • 行為に問題があっても
  • 判断を更新しない

という宣言だからだ。

民主主義は評価を変える自由があって初めて成立する。

独裁を生むのは「熱狂」ではなく「無関心」

歴史が示す最大の教訓はこれである。

独裁者を生んだのは、一部の過激な支持者ではない。

  • 「よく分からないけど任せる」
  • 「面倒だから考えない」
  • 「選挙で選ばれたのだから正しい」

こうした多数の無関心層が、結果として権力集中を止められなかった。

日本は例外ではない

「日本は成熟した民主国家だから大丈夫」そう言い切れる根拠はない。

日本社会には、

  • 権威に逆らうことを避ける空気
  • 批判を「和を乱す行為」と見る文化
  • 空気に従う方が安全という感覚

が存在する。

これらが重なれば、合法的な独裁は、どの国でも起こりうる。

民主主義を守るのは制度ではなく、有権者の姿勢

民主主義を守る最大の力は、

  • 冷静に事実を見ること
  • 好き嫌いと評価を分けること
  • 批判を敵視しないこと

である。

誰かを支持する自由はある。
しかし、無条件で擁護する自由は民主主義を壊す

兵庫県で起きていることは「対岸の火事」ではない

この問題は、決して過去のヨーロッパ史だけの話ではない。
現在の兵庫県政をめぐる状況にも、重なる構図が見え隠れしている。

近年、兵庫県では行政運営や知事の対応をめぐり、県民の間で賛否が大きく割れる事象が続いている。

本来であれば、一つひとつの行為や判断について、事実に基づいた検証と説明が行われ、それに基づいて評価が更新されるべきである。

しかし実際には、

  • 行為の是非よりも「誰の味方か」で評価が分かれる
  • 問題点を指摘すると「敵」「足を引っ張る存在」と見なされる
  • 事実関係を問う声に対し、「評価は変わらない」と結論だけが先に置かれる

といった空気が広がってはいないだろうか。

「法の適用」が人によって変わって見える危うさ

特に県民の不信を招いているのは、法やルールの適用が、一貫しているのか分かりにくいという点である。

  • ある事案では、極めて厳しい責任追及が行われる
  • 一方で、類似する性質の行為については、問題視されないように見える

このような状況が続けば、

法は万人に等しく適用される
という法治国家の前提が、
県民の実感として揺らいでしまう。

重要なのは、誰を守るか、誰を罰するかではない。
同じ基準が、同じように適用されているかである。

「選挙で選ばれたから正しい」は免罪符にならない

選挙で選ばれた首長には、強い正当性がある。
しかしそれは、すべての行為が無条件に正当化されることを意味しない。

にもかかわらず、

選挙で選ばれたのだから
支持しているから
県政を前に進めているから

という理由で、検証や批判そのものを封じる空気が生まれると、民主主義は一気に形骸化する。

これは、ヒトラーやムッソリーニの時代に見られた「合法性が免罪符になる構造」と、極めてよく似ている。

批判できない社会は、必ず住みにくくなる

権力に対して、

  • 疑問を呈する
  • 事実確認を求める
  • 説明を求める

こうした行為は、反対運動でも、足の引っ張り合いでもない。

民主主義を正常に保つための、最低限の行為である。

それが、

批判すると叩かれる
声を上げると攻撃される

という空気に変わった瞬間、多くの人は黙ることを選ぶ。

だが、黙って従う社会は、決して「住み良い社会」にはならない。

兵庫県を「安心して暮らせる地域」にするために

今、問われているのは誰が正しいか、誰が間違っているかではない。

問われているのは、

  • 事実に基づいて判断できているか
  • 好き嫌いと評価を分けられているか
  • 権力に対する健全な緊張関係が保たれているか

という、有権者一人ひとりの姿勢である。

民主主義は、「選ばれた人」が守るものではない。
「選ぶ側」が考え続けることでしか守れない。

兵庫県が、批判が許され、説明が尽くされ、安心して意見を言える地域であり続けるかどうかは、私たち県民の判断にかかっている。

結び

ヒトラーもムッソリーニも、「国民が選び、議会が認めた」結果、生まれた。

民主主義は、選挙があるだけでは守れない。

有権者一人ひとりが、事実を見て判断し続けること。
それをやめた瞬間、民主主義は静かに、しかし確実に形骸化する。

私たちは、本当にその社会を子どもや孫に残したいのだろうか。