支持者の迷惑行為に「分からない」と答える知事―2月10日 兵庫県知事定例会見の決定的場面

はじめに

2026年2月10日の兵庫県知事定例会見で、ひときわ異様なやり取りがあった。
それは政策論争でも、数字の精度を巡る応酬でもない。

問われたのは、知事という立場にある人物の姿勢そのものである。

県庁周辺で起きていた事実

会見当日、県庁周辺では拡声器を搭載した車両が走行しながら「斎藤頑張れ」と大音量で呼びかける行為が続いていた。

  • 一か所にとどまらず周回
  • 取材中の記者の声や知事の答弁が聞き取りづらい状況
  • 近隣では高校入試が実施中

これは思想や主張の是非以前に、公共空間での迷惑行為である。

菅野氏の質問は何を問うていたのか

フリー記者・菅野氏の質問は、一貫して明確だった。

「あなたの支持者が、県庁周辺で大音量による迷惑行為をしている。
知事として、その行為をやめるよう言うべきではないか」

ここで重要なのは、

  • 特定人物の処罰を求めていない
  • 警察対応を要求していない
  • 法的判断を迫っていない

知事の口から、公的にどういうメッセージを出すのかそれだけを問う質問だったという点である。

「よく分からない」という不可解な回答

これに対し、斎藤知事は次のような対応を繰り返した。

  • 「おっしゃっていることがよく分からない」
  • 「政策に関する質問をしてください」

質問は何度も繰り返され、表現も変えられている。
それでもなお「分からない」という回答が続いた。

ここで考えられるのは二つしかない。

1つは、本当に理解できなかったという可能性。
もう1つは、理解しているが答えたくなかったという可能性だ。

後者の方が、現実的だろう。

「政策の質問をしてください」は答えになっていない

支持者の迷惑行為への見解は、政策論ではない。
しかし、それは政策以前の問題である。

知事は単なる政策説明係ではない。
公共性に影響を及ぼす立場にある人物だ。

支持者であれ、反対者であれ、県政に関わる行為が社会に迷惑をかけているのであれば、「やめてください」と発言することは、政治的行為ではなく統治の責任である。

それを「政策ではないから答えない」と切り捨てるなら、知事という職の理解自体が極端に狭いと言わざるを得ない。

決定的だった最終確認

菅野氏は最後に、こう確認した。

「あなたの支持者が迷惑行為をしているので
やめろと言うべきではないかという質問に対して
『趣旨が分からない』と答える人だという理解でいいですね」

これは評価ではなく、事実確認である。

斎藤知事は、この確認を否定しなかった。

つまり、

  • その質問に答えなかった
  • そのことを否定もしなかった

という事実だけが残った。

なぜ今回は「公共行事への配慮」を語らなかったのか

ここで、もう一つ注目すべき点がある。

菅野氏は、反斎藤側の行動についても言及している。
それは決して擁護ではなく、事実の説明だった。

反対側の人々は、

  • 高校入試が近隣で行われていることを踏まえ
  • いつもより音量を下げ
  • 指向性の高いスピーカーを使い
  • 音が庁舎周辺以外に広がらないよう配慮している

と説明している。

つまり、この場面で問題とされていた「大音量による迷惑行為」は、少なくとも会見の文脈上、知事支持者側の行為に限定されていた

ここで思い出されるのが、過去の別の対応である。

小学校の音楽会を理由に記者会見の時間を変更した

斎藤知事は以前、
小学校の音楽会が近隣で行われることを理由に、
「音楽会に影響があるため」と明確に述べ、
記者会見の時間を変更したことがある。

このとき知事は、

  • 公共行事への影響
  • 周辺環境への配慮

をはっきりと言葉にして説明していた。

しかし、そうした発言はなかった。

この違いは、単なる偶然なのだろうか。
それとも、

  • 支持者に対してのみ自制を求める形になることを避けた
  • 応援行為を否定するメッセージを出したくなかった

と受け取られても仕方のない状況だったのではないか。

もちろん、真意は本人にしか分からない。
だが少なくとも、

過去には明確に「影響がある」と語った知事が、
今回は語らなかった理由について、説明はなされていない。

という事実だけは残る。

公私の区別が曖昧になると何が起きるのか

すでに私は別の記事で、公的行為と私的行為の区別が曖昧になることによる危険性について指摘してきた。
(参照:
公的行為と私的行為の境界が曖昧になる危うさ
誤った宗教権威主張と排除パターン
何もしないことが許される空間の拡大

四宮神社での支持者の行為に「分からないのでコメントできない」と会見で述べたこと。

これらの記事で共通しているのは次の点だ。

公的役割を担う者が、特定の行為者に便宜を図り、
他者の権利や公共性を守らないことで
「一部の者だけが快適に暮らせる空間」が構築されてしまうこと。

今回の定例会見で現れたやり取りにも、これと同じ構造が見て取れる。

支持者行為と「公共・私的の境界」

今回、会見中に言及された支持者側の行為については

  • 周回しての大音量放送
  • 公共空間での活動
  • 記者や知事の発言の妨げになっている

という事実があった。

一方で、反対側とされる人物やグループについては

  • 高校入試を配慮して音量を落としている
  • 指向性の強いスピーカーを使用している
    という説明がなされている。

つまり、この場で問題として認識されていた行為は支持者側の活動のみであり、反対側の行為については配慮がある事実として説明されていた。

対照的な過去の対応

以前、小学校の音楽会が行われることを理由に、知事は会見時間を変更し「音楽会への影響がある」という発言を明確に示した事例がある。

このときの対応は極めて単純だ。

公共行事に影響が出る可能性 → 明確に配慮

という判断が言語化された。

ところが、今回の定例会見では、高校入試という公共行事の趣旨が示され、音量の問題が指摘されたにもかかわらず、

「何をおっしゃっているのか分からない」

という形で応じられた。

「何もしない」という姿勢の帰結

ここで重要なのは、単に言葉の問題ではない。

過去の記事で取り上げたように、「公的立場でありながら特定の行為を許容し、他者に配慮せず、説明責任を果たさない」ことは、

  • 行為者と被害者の間の不均衡を放置する
  • その結果として特定の者だけが快適に暮らせる空間が生まれる
  • 行政の説明責任と統治の公正性が弱まる

という帰結を生む。

今回のケースは、その構造を共有している。

つまり、

支持者の行動が公共空間の秩序を損なっている可能性があり、
それを是正する立場にあるはずの人物が
明確な姿勢を示さず、説明責任を回避した

という点で、過去の問題パターンと同質の構造を持っている。

「見て見ぬふり」という評価が生まれる理由

もちろん、これが「悪意ある黙認」「共謀」だと証明するためにはさらに詳細な事実調査が必要だ。

しかし、論理的に次の点は言える。

  • 公共行事への配慮を言語化した過去の実績がある
  • 今回もそれに該当する事象があるにもかかわらず
  • 発言を避けた

この条件が満たされている以上、

支持者に対してだけ明確な注意を避けた可能性がある

という疑問は合理的であり、読者に提示する価値がある。

ただしこれは推測ではなく、

説明責任が果たされていない

という評価可能な事実に基づいた推論である。

この対応が示す統治スタイル

このやり取りが示しているのは、次のような姿勢だ。

  • 支持者の行動には関与しない
  • 不都合な問いは「分からない」で処理する
  • 説明よりも、場のコントロールを優先する

これは、これまで指摘されてきた第三者委員会への対応や説明回避の姿勢と、構造的に同じである。

沈黙は中立ではない

この問題は、記者の態度の是非ではない。
また、支持者の主張内容の是非でもない。

問われているのは、県政のトップが、自らの影響力をどう使うのかという一点だ。

支持者の迷惑行為を止めることもできず、それについて語ることすら避ける。

それが、兵庫県知事としての説明責任の姿なのか。
県民一人ひとりが、冷静に考えるべき問題である。