「記者に民意はない」のなら、知事は誰に説明しているのか― 定例会見と民主主義のすれ違い

兵庫県知事の定例会見をめぐり、「記者クラブと県議会・政党の癒着」「メディアによる偏向報道」「斎藤知事叩き」といった主張が、知事支持層から繰り返し発信されている。

彼らはこう言う。

真実を報道するのがジャーナリストの矜持のはずなのに、メディアは権益擁護側に回り、斎藤知事に対する偏向報道を続けている。恥ずべきことだ。

この主張は一見すると「メディア批判」として成立しているように見える。
しかし、ここにはより深刻な問題が含まれている。

記者は「個人」ではなく「県民の代理」である

関西テレビ鈴木記者の発言は、

「失礼な答えが多い」「答えない会見になっている」

という取材現場の感想ではありますが、本質は「県民が疑問に思っていることが、答えられていない」という構造的な問題提起です。

会見における記者は、

  • 自分の意見を述べに来ているのではなく
  • 県民の疑問・不安・批判を代弁している存在

です。

県民一人ひとりが直接知事に質問できない代わりに、県民の疑問や不安を代弁する存在として質問をしている。

にもかかわらず、知事が記者の指摘や問題提起に対して

「個人的な見解として承ります」

と返す場面が繰り返されている。

「「すごい挑発ですね」と記者怒り…斎藤知事 年内最後の会見でも批判噴出、“逃げ回答”繰り返し場内では怒号も」
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b7d76fc0cdefece9236b04be1363577d0ef542d(出典:女性自身 2025年12月23日)

「個人的な見解として承ります」が意味するもの

これに対し斎藤知事が返した

「個人的な見解として承ります」

という言葉は、一見すると丁寧ですが、実際には次のメッセージを含んでいます。

  • それは県政として答える対象ではない
  • 県民の声として受け止める義務は感じていない
  • 政策や姿勢の改善に反映させる前提がない

つまり
👉 「聞いたが、県政には関係ない」
という線引きです。

県民の存在が、会見から消えている

本来、記者会見は

知事 ⇄ 記者 ⇄ 県民

という三者関係で成り立つものです。

しかし今回のやり取りでは、

  • 記者の問い → 「個人的意見」
  • 県民の不満 → 会見の外

とされ、県民が完全に切り離されている

その結果、

  • 説明責任は果たされず
  • 対話も成立せず
  • 「形式だけの会見」になる

これは鈴木記者が言う**「答えない会見」**そのものです。

「挑発」と感じる発言の危うさ

鈴木記者の

「凄いですね挑発が」

という一言は感情的に見えるかもしれませんが、それだけ知事の言葉が対話を拒むものに聞こえたということです。

説明を求める声を

  • 批判
  • 挑発
  • 個人的見解

として処理してしまう姿勢は、民主主義において最も危うい兆候の一つです。

菅野さんの指摘が示す本質

菅野さんの

「今の言論弾圧に物書きは黙ってられない」

という発言は誇張ではありません。

  • 記者の質問を「個人的意見」と切る
  • 事実確認や説明要求を「失礼」と受け取る
  • 不都合な問いを制度の外に追い出す

これは制度的な言論弾圧の入口です。

「記者に民意はない」と考えるなら、取るべき行動は一つ

もし本当に

  • 記者は偏向している
  • 記者クラブは癒着している
  • 記者の質問に民意はない

と知事が考えているのであれば、論理的に導かれる結論は明白だ。

定例会見という形式自体が無意味であり、直接、県民と対話する場を設けるべきということになる。

しかし現実には、

  • 公開の県民対話は行われない
  • 批判的な声には距離を置く
  • 会見ではテンプレート回答が続く

という状態が続いている。

これは「記者を信用していない」以前に、不都合な声を民意として扱いたくない姿勢を示しているように見える。

「反斎藤は少数意見」という言葉の危うさ

斎藤知事支持者の間では、

反斎藤の声は少数派だ

という言説も多く見られる。

しかし、民主主義とは少数意見を切り捨てるための制度ではない。

むしろ政治家には、

  • 自分を支持しない声
  • 厳しい批判
  • 不快な指摘

にこそ耳を傾ける責任がある。

少数であることを理由に「無視してよい」「民意ではない」と切り捨て始めた瞬間、政治は支持者のためだけのものになり、民主主義は形骸化する。

問われているのは「報道の姿勢」ではなく「説明する覚悟」

の問題を「記者クラブの体質」や「偏向報道」に矮小化してしまうと、本質を見失う。

本当に問われているのは、

  • 知事は、誰に向けて説明しているのか
  • 異論や批判を、県政を改善する材料と捉えているのか
  • 少数意見を含めた県民全体に向き合う覚悟があるのか

という点だ。

おわりに

定例会見の向こう側には、常に県民がいる。
記者の質問を「個人的な見解」と切り捨てることは、その背後にいる県民の声を切り捨てることと同義である。

もしそれを続けるのであれば、定例会見は「説明の場」ではなく、説明しているように見せるための儀式に過ぎなくなる。

民主主義に必要なのは、支持者に向けた安心材料ではなく、異論を含めた説明と対話である。