「怪文書だから公益通報ではない」は成り立つのか―兵庫県の不開示決定が示した決定的事実
兵庫県の文書問題をめぐり、斎藤知事の支持者の間では「元県民局長の文書は怪文書だから、公益通報者ではない」という主張が繰り返されています。
しかし、この主張は事実と法の両面から見て成り立ちません。
そのことを示す、極めて重要な行政文書が存在します。
目次
兵庫県自身が示した「不開示決定」の内容
兵庫県は、元県民局長の告発文書について、
- 虚偽であること
- 公益通報に該当しないこと
- 不正の目的でばら撒かれたこと
- 企業や県職員の名誉を棄損したこと
これらを証明する公文書の開示請求の内容がXに公開されました。
その結果、兵庫県が出した公式な結論は次の通りです。
「公開請求に係る公文書については、作成していないため、保有していない。」
これは非常に重要な意味を持ちます。
兵庫県は「不正の目的」も「怪文書」も立証できる資料を持っていません。
— Equalitybeforethelaw (@motohiko_LOVE) December 31, 2025
正式に開示された「不正の目的」を立証できる公文書をお持ちでしたらご提示ください。私も同じ公文書を請求するので… pic.twitter.com/CFGGu6erQN
「怪文書」と断定する証拠を兵庫県は持っていない
この不開示決定が意味する事実は明確です。
兵庫県は、
- 元県民局長の文書が虚偽である
- 公益通報に該当しない
- 不正目的である
これらを立証するための公文書を、一切作成していないということを、公式に認めています。
つまり、
「怪文書だ」と断定できるだけの
客観的・公式な証拠は存在しない
という状態です。
公益通報者保護法は「怪文書かどうか」で判断しない
もそも、公益通報者保護法において重要なのは、
- 文書の解釈
- 感情的な評価
- 政治的な立場
ではありません。
判断基準は、
- 違法・不当行為に関する通報か
- 通報対象事実があること(またはあると信じるに足りる相当の理由)
- 不正の目的でないこと
- 労働者等であること
- 定められた通報先へ通報すること
です。
「怪文書」という言葉は、法律上の判断基準には存在しません。
「立証できない」ことの意味
法の世界では、次の点が極めて重要です。
- 虚偽であると主張する側が
- それを立証する責任を負う
しかし今回、兵庫県自身が「その立証資料は存在しない」と公式に回答しています。
これは、
「怪文書だから公益通報ではない」
という主張を裏付ける根拠が存在しない
ことを意味します。
第三者委員会の違法認定との整合性
第三者委員会が、兵庫県の対応について公益通報者保護法違反を認定したのは、以下の通りです。
- 文書が虚偽であると立証されていないにもかかわらず
- 通報者探索や不利益取扱いが行われた
この構造そのものが、法の趣旨に反しているからです。
「怪文書論」は事実ではなくレッテル貼り
以上を踏まえると、結論は明確です。
兵庫県自身が、元県民局長の文書を
「虚偽」「不正目的」「公益通報に該当しない」と
立証する公文書を一切保有していない。にもかかわらず
「怪文書だから公益通報ではない」と主張するのは、
事実でも法でもなく、単なるレッテル貼りにすぎない。
事実が示されても認識を改めないということ
兵庫県自身が、元県民局長の告発文書を「虚偽」「不正目的」「公益通報に該当しない」と立証する公文書を保有していないことが明らかになりました。
それにもかかわらず、なお「怪文書だから公益通報ではない」と言い続ける態度は、もはや評価の問題になります。
事実認識と解釈を区別できているか
社会で冷静な判断を行うために必要なのは、
- 新たな事実が示されたときに
- それまでの認識や解釈を
- 必要に応じて修正できるか
という姿勢です。
事実が更新されても解釈を一切変えない場合、それは「意見」ではなく、固定化された信念に近づきます。
「怪文書」という言葉の使い方が示すもの
「怪文書」という表現は、法的概念ではありません。
それは評価語であり、レッテルです。
公式文書に基づく事実が示された後も、そのレッテルを外さず使い続ける行為は、
- 事実よりも感情や立場を優先している
- 証拠の有無ではなく結論を先に決めている
と受け取られても不思議ではありません。
認知の柔軟性は民主主義の基盤
民主主義社会では、
- 誰もが間違う可能性がある
- 新しい情報によって判断が変わることがある
この前提が不可欠です。
事実が示されてもなお、同じ主張を繰り返す態度は、
事実を正確に把握する能力に疑問を持たれる
自分の解釈を修正できない人と評価される
という社会的リスクを伴います。
問われているのは立場ではなく姿勢
この問題で問われているのは、
- 斎藤知事を支持するかどうか
- どの陣営に属するか
ではありません。
事実が示されたときに、それをどう受け止め、どう判断を更新するか
その姿勢こそが、成熟した市民としての信頼を左右します。
おわりに
この問題の本質は、
「誰を信じるか」
「どちらの陣営か」
ではありません。
行政が、法に基づいた説明と証拠を示しているか
それだけです。
そして現時点で示されている公式文書は、「怪文書論」を支える根拠が存在しないことを、はっきりと示しています。






