「兵庫県知事参拝」は公的行為か私的行為か―四宮神社で起きた出来事が示す公私混同と県民分断の現実―「兵庫県知事参拝」は公的行為か私的行為か

2025年1月4日、斎藤元彦・兵庫県知事が四宮神社を参拝した際の出来事が、兵庫県の深刻な分断を象徴する事例として注目を集めている。
この場で起きたのは、単なるトラブルではない。
公私混同、説明責任の放棄、そして「支持かアンチか」で人を排除する空気が、可視化された瞬間だった。

本稿では、事実関係を整理した上で、法的・社会的な問題点を冷静に検討する。

「兵庫県知事参拝」と明示された看板の意味

当日、四宮神社には「兵庫県知事参拝」と記載された看板が掲げられていた。

これは重要な事実である。

  • 単なる一般参拝ではなく
  • 「兵庫県知事」という公的地位を明示
  • 第三者から見れば、公的性格を帯びた行為

少なくとも、県民が「公的な場面」と受け取るのは自然である。

しかし知事は「プライベート」を主張した

ところが、知事に対して質問をしようとして、その様子を撮影していた子守康範氏に対し、斎藤知事は次のように述べたとされている。

「プライベートなので、撮影は止めてもらえませんか?」

ここに大きな矛盾がある。

  • 看板では「兵庫県知事参拝」
  • 都合が悪くなると「プライベート」

公的地位を利用しつつ、不都合な場面では私人に戻る
これは典型的な公私混同の構図である。

知事が「プライベート参拝」だと主張するのであれば、
その移動に「公用車」を使用していれば問題になります。

逆に言えば、

  • 公用車を使っているなら「私的行為」とは言えない
  • 私的行為なら「自費・私用車」が原則

どちらか一方しか成立しません。

なぜ問題になるのか(行政の基本)

公用車の使用原則

公用車は、

  • 公務遂行のため
  • 職務上の必要性がある場合

に限って使用が認められます。

私的利用は原則禁止
グレーな場合でも「公務性の説明」が必要

これは知事であっても例外ではありません。

「年始参拝」は自動的に公務になるのか?

ここも重要です。

  • 公式行事として位置づけ
  • 県の広報や予定表に掲載
  • 「兵庫県知事参拝」と明示

この場合は 公務性が認められる可能性が高い

しかし今回、知事自身が

「プライベートなので撮影は控えてほしい」

と発言している以上、自ら公務性を否定していることになります。

すると、公用車使用はどう評価されるか

整理するとこうなります。

知事の主張公用車使用の評価
公務使用可(説明責任あり)
プライベート❌ 不適切(私的利用)

「プライベートだけど公用車」は成立しません

これは監査請求・住民監査の対象になり得る論点です。

さらに問題なのは「後付けで立場を変えること」

最も信頼を損なうのは、

  • 看板では「兵庫県知事参拝」
  • 扱いも公的
  • 批判が出ると「プライベート」

という 後出しジャンケン です。

これは、

  • 県民への説明責任の回避
  • 行政資源の私物化と疑われても仕方がない
  • 公私の線引きを曖昧にする行為

と受け取られます。

神職による「アンチ認定」と排除

さらに問題を深刻にしたのは、神職による対応だ。

子守氏に対し、神職は次のような趣旨の発言を行っている。

  • 「侵入禁止。オタクは」
  • 「アンチですから」
  • 「そういう口調がアンチ」
  • 「皆さんがおっしゃいますから」

ここで問題なのは、行為ではなく、立場・思想で排除している点である。

質問しようとした行為が違法だったわけでも、礼拝を妨害したわけでもない。
それにもかかわらず、「アンチ」というレッテルで締め出された。

刑法188条(礼拝所不敬罪)の完全な誤用

神職は、排除の理由として「憲法188条」「礼拝所不敬罪」を持ち出した。

しかし、これは明確な誤りである。

刑法188条の本来の対象

礼拝所不敬罪が成立するのは、

  • 礼拝所や墓地の物理的破壊
  • 著しい冒涜行為

などに限られる。

質問しようとすること
撮影すること
知事に謝罪の意思を尋ねること

これらはいずれも、刑法188条には該当しない。

法的根拠のない「罪」を口実に排除する行為は、
法治国家において極めて危険である。

忖度が暴走する構造

注目すべきは、この場面で斎藤知事自身が強く排除を指示したわけではない点だ。

  • 周囲が「知事を守る」ために先回り
  • 批判を封じる役割を自発的に引き受ける
  • 法律や権威を誤用してでも排除

これは、権力者本人が何も言わなくても、周囲が暴走し始めた状態を示している。

歴史的に見ても、極めて危うい兆候である。

「支持かアンチか」という二分法の危険性

この出来事が象徴しているのは、兵庫県に広がる次の空気だ。

  • 疑問を持つ人は「アンチ」
  • 説明を求める人は「敵」
  • 批判は不敬、排除対象

しかし、民主主義において、

権力者に質問すること
説明責任を求めること

は、敵対行為ではなく、県民の権利である。

公的行為か私的行為か、どちらかしか成立しない

この問題の核心は単純だ。

  • 公的行為なら → 質問されて当然
  • 私的行為なら → 「兵庫県知事参拝」という看板は不要

両立はしない。

都合によって使い分けることこそが、県民の不信を深め、分断を拡大させる原因となる。

この出来事が示すもの

四宮神社で起きた出来事は、

  • 一個人の問題ではない
  • 一神社の問題でもない

兵庫県で進行している「批判を許さない空気」そのものを映し出している。

冷静に事実を問い、説明を求めることが「アンチ」として排除される社会は健全ではない。

県政を正常に戻すために必要なのは、沈黙でも、忖度でもなく、事実と説明に基づく対話である。