第三者委員会は「無価値」なのか―否定に必死になる支持者ロジックの矛盾

2026年2月11日

第三者委員会は「調査報告でしかない」という主張

兵庫県政をめぐる議論の中で、斎藤知事支持者から繰り返し聞かれる主張がある。

「第三者委員会の調査報告は、調査報告でしかない」
「法的拘束力はない」
「違法認定などできない」

確かに、第三者委員会の報告書には裁判所の判決のような法的拘束力は存在しない。
これは事実であり、否定のしようはない。

しかし、ここから先の論理展開に、重大な違和感が生じる。

「価値がない」なら、なぜ必死に否定するのか

支持者の多くは、第三者委員会を

  • 爺さん婆さんの茶飲み話
  • お気持ち表明
  • 参考意見にすぎない

と表現し、その価値の低さを強調する。

だが現実には、第三者委員会の認定に対して、連日のように強い言葉で反論し、攻撃し、否定を続けている。

ここに明確な矛盾がある。

もし本当に、

  • 取るに足らない
  • 無視できる
  • 影響力がない

ものであるなら、わざわざこれほど執拗に反論する必要はないはずだ。

必死に否定しているという事実そのものが、その認定が「無視できない重みを持っている」ことを示している。

「拘束力がない」=「意味がない」は誤り

支持者の論理の中核は、次の一点に集約される。

「法的拘束力がないのだから、意味はない」

しかしこれは、制度理解として誤っている。

第三者委員会は、

  • 裁判所ではない
  • 違法性を最終確定する機関ではない

一方で、

  • 行政行為が適法・妥当だったかを検証する
  • 県民・議会・監査の判断材料を提供する

という明確な役割を持つ。

実際、

  • 住民監査請求
  • 住民訴訟
  • 議会での不信任判断
  • 首長の政治責任評価

これらはいずれも、裁判所の確定判決を前提としない。

第三者委員会は「司法判断の代替」ではないが、民主主義的統制の前段として極めて重要な位置づけにある。

具体的反論ができないための「価値否定」

本来、第三者委員会への反論として必要なのは、

  • 認定事実の誤認
  • 証拠評価の問題点
  • 法解釈の誤り

といった中身への反論である。

しかし、支持者の多くはそこに踏み込めない。

結果として取られているのが、

  • 委員の人格否定
  • 委員会そのものの権威否定
  • 「裁判じゃない」という一点張り

という、「中身を論じない否定」である。

これは反論ではなく、反論不能になった側が取りがちな論点ずらしに近い。

「司法判断が出ていない=悪くない」という危うさ

支持者の最終的な着地点は、しばしばこうなる。

「司法判断が出ていない以上、
斎藤知事は悪くない」

この論理を採用すると、次の結論が導かれる。

  • 百条委員会は不要
  • 第三者委員会も不要
  • 行政監査も不要
  • 説明責任も不要

なぜなら、すべて「裁判ではない」からだ。

これは、政治責任・行政責任という概念そのものを否定する考え方である。

結果的にそれは、斎藤元彦個人を守るために、民主主義の制度全体を軽視する立場へとつながってしまう。

否定は、実は知事自身にとっても不利である

第三者委員会を「無価値」と切り捨てる姿勢は、短期的には支持者の溜飲を下げるかもしれない。

しかし長期的には、

  • 「なぜ裁判で争わないのか」
  • 「なぜ具体的に反論しないのか」
  • 「説明から逃げているのではないか」

という疑念を、一般県民の側に強く残す。

無視できないから否定している。
否定しているから、重く受け止めているように見える。

この矛盾こそが、現在の支持者ロジックの最大の弱点ではないだろうか。

おわりに

第三者委員会に法的拘束力がないことは事実である。
しかし、それは「意味がない」こととは全く異なる。

むしろ、

  • 必死な否定
  • 論点のすり替え
  • 制度そのものへの攻撃

これらの振る舞いが、第三者委員会の認定が持つ重みを、逆説的に浮き彫りにしている。

否定しなければならないほどの認定だったのか。

多くの県民が、そう感じ始めているのではないだろうか。