斎藤知事問題における「被害者」と「加担者」の構造整理― 投票行為と、その後の態度は分けて考えるべきである ―
斎藤知事を巡る問題について議論すると、しばしば「斎藤知事に投票した県民を愚弄しているのか」「民意を否定するのか」という反発が起こります。
しかし、これは論点のすり替えです。
本稿では、
- 投票という行為
- その後に明らかになった事実
- そして現在も続く言動
を切り分け、誰が「被害者」で、誰が「加担者」なのかを冷静に整理します。
目次
多くの県民は「詐欺の被害者」である
選挙当時、県民に与えられていた情報は十分だったのか
選挙当時、多くの有権者は、
- 「改革派」「クリーン」というイメージ
- 既得権益と戦うという抽象的なスローガン
- 問題点が十分に検証されていない情報環境
の中で判断を迫られました。
重要な事実や、後に問題となる行為については、選挙前に十分な検証や説明がなされていなかったのが実情です。
この状況での投票行為は、
👉 誤った情報や不十分な情報に基づく判断であり、多くの県民は構造的に「騙された側」でした。
詐欺的構造において、騙された人を責めることは民主主義ではありません。
「投票したこと」と「今も信仰すること」は全く別の話
事実が出揃った「今」は、状況が違う
現在は、
- 百条委員会による事実認定
- 第三者委員会による違法性・不適切性の指摘
- 知事本人が具体的説明を避け続けている事実
など、判断材料はすでに揃っています。
にもかかわらず、
- 事実を無視・否定する
- 告発者や問題提起をする側を貶める
- デマや歪曲を拡散する
- 「民意」「民主主義」を盾に検証を拒否する
こうした行為を現在進行形で続けている人は、もはや単なる「被害者」ではありません。
👉 **詐欺的構造を維持・再生産する側、すなわち「加担者」**です。
これは思想の問題ではなく、行為の問題です。
気づいて引き返した人は、被害者のままである
重要なのは、一度支持したかどうかではありません。
- 事実を知り
- 自分の判断を見直し
- 距離を取った
こうした人は、
- 騙されたことに気づいた被害者
- 認知的不協和を乗り越えた有権者
であり、責められる立場ではありません。
したがって、
「斎藤知事に投票した人は全員悪い」
という言説は誤りであり、問題の本質を曖昧にします。
なぜ「支持者」ではなく「信者」と呼ばれるのか
現在も残っている一部の人々が「支持者」ではなく「信者」と呼ばれるのは、
- 事実より信念を優先する
- 検証や反論を拒否する
- 異論に対して攻撃的になる
- 知事個人の正当化が目的化している
といった特徴を持つからです。
これは政策支持や政治的評価ではなく、個人崇拝に近い状態です。
この立場の人が「県民を代弁する」「被害者を守る」ことはできません。
「民意」を盾にした曲解が民主主義を壊す
「選挙結果=絶対的な民意」として、その後の検証や批判を封じる行為は、民主主義ではありません。
民主主義とは、
- 結果を尊重しつつ
- 過程を検証し
- 問題があれば是正する
ための仕組みです。
「史上最悪の選挙だった」という評価は、県民を侮辱する言葉ではなく、次の選挙を守るための警鐘です。
斎藤信者になってしまった人は、もう引き返せないのか
「もう戻れない」と感じている人は少なくない
現在も斎藤知事を無条件に擁護し続けている、いわゆる「斎藤信者」と呼ばれる人たちについて、「彼らはもう引き返せないところまで来てしまったのか」という問いが投げかけられることがあります。
結論から言えば、全員ではないものの、内心では『もう後戻りできない』と感じている人は相当数いる可能性が高いと考えるのが現実的です。
その理由は、思想ではなく心理的・社会的コストにあります。
間違いを認めた瞬間に失うものが大きすぎる
斎藤信者と呼ばれる状態にある人の多くは、
- 長期間にわたって知事を擁護してきた
- 批判者を強く攻撃してきた
- デマや歪曲情報を拡散してきた
- SNS上でその立場を軸に人間関係や承認を築いてきた
こうした行為を積み重ねてしまった後です。
この段階で事実を認めるということは、
- 自分が「被害者」ではなく「加担者」だったと認めること
- 過去の発言や行動を自分自身で否定すること
- 社会的立場や承認を一気に失う可能性
を意味します。
人はここまで来ると、理屈ではなく自己防衛として、引き返さない選択をしてしまうのです。
攻撃的であればあるほど、不安を抱えている可能性が高い
特に、
- 論点ではなく人格攻撃を行う
- 「県民」「民主主義」を盾に議論を封じる
- 被害者を代弁しているかのように振る舞う
- 質問や検証を極端に嫌がる
こうした態度が強い人ほど、内面では「揺らぎ」や「不安」を抱えているケースが少なくありません。
本当に確信を持っている人は、ここまで過剰に防衛的・攻撃的にはなりません。
攻撃性の強さは、むしろ内心の動揺の裏返しであることが多いのです。
それでも「引き返せる人」は確実に存在する
重要なのは、今は引き返せないように見えても、永久に引き返せないわけではないという点です。
実際に、
- 事実を知った後に態度を変えた人
- 支持を撤回し、距離を取った人
- 「自分は間違っていた」と言葉にした人
は、すでに存在しています。
人が引き返すきっかけは、
- 決定的な事実がさらに明らかになった時
- 信頼していた人物が離れた時
- 自分自身が不利益を被った時
- 「間違いを認めても排除されない」環境が見えた時
です。
切り捨てよりも「構造批判」が必要な理由
斎藤信者を一括して「救いようがない」「全員敵だ」と切り捨ててしまうと、
- 彼らはさらに殻に閉じこもり
- カルト化が進み
- 詐欺的構造が固定化される
という逆効果が生まれます。
だからこそ重要なのは、
- 個人の人格ではなく行為と構造を批判する
- 被害者と加担者を冷静に切り分ける
- 引き返すための「出口」を残す
という姿勢です。
民主主義を立て直すために必要な視点
この問題の本質は、誰かを論破することでも、支持者を嘲笑うことでもありません。
- 被害者は守る
- 加担行為は批判する
- 同じ手法が次の選挙で繰り返されないようにする
そのための社会的整理です。
斎藤信者になってしまった人を生み出したのも、個人の資質ではなく、情報環境と選挙の構造です。
構造を直さない限り、次の選挙でも同じことが起こります。
信者になってしまった人は、本当は辛いのか
表では強気、内側では強い負荷を抱えている
斎藤知事を強く擁護し続けている人たちは、一見すると、
- 自信満々
- 断定的
- 攻撃的
に見えます。
しかし心理的には、**その振る舞い自体が「辛さのサイン」**であることが少なくありません。
人は、本当に確信している時ほど、他者を攻撃する必要がありません。
「自分は間違っていない」と言い続けなければならない苦しさ
信者化してしまった人は、日常的に
自分は間違っていない
自分の選択は正しかった
と言い続けなければならない状態に置かれています。
なぜなら、一度でも立ち止まってしまうと、
- これまでの行動が加害だった可能性
- 他人を傷つけてきた事実
- 被害者を否定してきた記憶
が一気に押し寄せてくるからです。
これは強烈な精神的負荷です。
認知的不協和が慢性的に続く状態
信者状態とは、
- 事実は否定できない
- しかし自分の立場も守りたい
という矛盾を抱え続ける状態です。
この矛盾を解消するために、
- 事実を歪める
- 相手を悪者にする
- 「敵」「アンチ」というレッテルを貼る
といった行動が強化されます。
つまり、信者化とは、認知的不協和を“解消できないまま固定化した状態”とも言えます。
「引き返せない」のではなく「引き返すと壊れてしまう」感覚
多くの信者は、理屈では
もしかすると、おかしいのではないか
という疑念を、どこかで抱いています。
しかし同時に、
ここで認めたら、自分が壊れてしまう
これまで築いた自分が消えてしまう
という恐怖も抱えています。
だから彼らは、
- 引き返せないのではなく
- 引き返すことが怖すぎる
のです。
それでも、救いがあるとすれば
それでも希望があるとすれば、
- 辛さを感じているということ自体が
- 完全に思考停止していない証拠
だという点です。
本当に危険なのは、辛さすら感じなくなった状態です。
苦しさを抱えている人は、いつか「事実を見る力」を取り戻す可能性があります。
外からできることは「追い詰めない」こと
この段階の人に対して、
- 嘲笑
- 完全な切り捨て
- 人格否定
を行うと、彼らはさらに殻に閉じこもります。
必要なのは、
- 行為と構造は厳しく批判する
- しかし人格までは否定しない
- 「間違いを認めても居場所はある」と示す
という姿勢です。
結論
整理すると、構造は明確です。
- 当時、斎藤知事に投票してしまった多くの県民
→ 詐欺の被害者 - 事実が出揃った後も、歪曲・攻撃・拡散を続ける人
→ 詐欺に加担する側 - 気づいて態度を改めた人
→ 被害から回復した有権者
この線引きは、誰かを貶めるためではありません。
同じ手法が次の選挙で繰り返されないための最低限の整理です。
被害者を守り、加担行為を批判し、民主主義を正常に戻す。
それが、今この問題を論じる意味です。






