「もう、斎藤知事と対話の段階ではない」と感じる人たちの視点と、その限界
おそらく、毎日のように斎藤支持者の発言に向き合い、毎週、知事定例記者会見を確認し、事実関係を整理し続けている反斎藤側の人たちの多くは、
「もはや斎藤知事と対話するような段階ではない」
「これ以上、説明を求めても意味がない」
と感じていると思います。
その感覚自体は、決して不自然ではありません。最前線で情報を追い、議論し、消耗しているからこそ生まれる、極めて真っ当な疲労感でもあります。
目次
最前線の感覚と、圧倒的多数派の認識は一致しない
しかし、ここで冷静に確認すべき重要な事実があります。
それは、最前線で戦っている人たちの感覚と、県政にあまり関心のない人たちの認識には、決定的な隔たりがあるという点です。
日々、議論を重ねていると、
- 斎藤支持者
- 反斎藤側
しか存在しないような錯覚に陥りがちです。
しかし実際には、そのどちらにも強く属していない人たちこそが、圧倒的なマジョリティです。
圧倒的マジョリティは「戦っていない人たち」
県政に強い関心を持たない人たちは、
- 定例記者会見を見ない
- SNS上の論争を追わない
- 法的・制度的な細部も知らない
その一方で、
- 生活は続いており
- 税金は納めており
- 県政の影響は確実に受けています
この層にとって、斎藤知事についての情報は、ほぼ「断片的」にしか届いていません。
だからこそ、
- 誰が正しいのか
- 何が問題なのか
- そもそも、なぜ揉めているのか
が、十分に理解できていないのが現実です。
県民対話集会の本当の対象は「沈黙している多数派」
県民対話集会の本当の対象は、
- 毎日議論している人たちでも
- 声高に支持・批判を繰り返す人たちでもありません。
最大の対象は、沈黙している多数派です。
この人たちは、
- 直接、知事の言葉を聞き
- 質問にどう向き合うのかを見て
- その態度から、直感的に判断します
理屈よりも、
「説明する気があるのか」
「誠実に向き合っているのか」
を重視します。
対話は、支持者と反対派のためではなく、無関心層のためにある
「もう対話の段階ではない」と感じる人がいる一方で、対話がなければ、判断できない人たちが大勢いる。
この事実を見誤ると、
- 議論は内輪化し
- 声の大きい人同士だけが疲弊し
- 多数派は、状況を理解しないまま置き去りにされます
県民対話集会は、対立を解消するための場というよりも、
👉 圧倒的多数派に「判断材料」を渡すための場
なのです。
事実を知らないままの投票が、県政を取り返しのつかないものにする
前回の知事選では、
- 事実関係を十分に確認しないまま
- 定例記者会見や公式説明に触れることもなく
- SNSで流れてくる誰かの「解釈」や「切り取り」だけを頼りに
投票行動を決めた有権者が、決して少なくありませんでした。
これは特定の候補者や有権者を非難する話ではありません。
情報が氾濫し、時間も余裕もない中で、人はどうしても分かりやすい物語に流されやすいからです。
しかし、その結果として、
- 何が事実で
- 何が解釈で
- 何が未説明のままなのか
が整理されないまま選挙が行われると、選挙後に「こんなはずではなかった」と気づいても、簡単には取り返しがつきません。
SNSの「誰かの解釈」は、説明責任を代替できない
SNSで流れてくる情報の多くは、
- 一部の事実を強調したもの
- 文脈を切り取ったもの
- 発信者の立場や感情が強く反映されたもの
です。
それ自体が悪いわけではありませんが、それが公的な説明の代わりになってしまうことは、民主主義にとって極めて危険です。
本来、
- 事実の説明
- 判断理由の説明
- 将来像の提示
は、知事自身が、県民に対して行うべきものです。
その役割を、匿名の誰かの解釈や、支持者・反対派の物語に委ねてしまえば、県政の評価は歪み続けます。
県民対話集会は「誤解が固定化する前」の最後の防波堤
県民対話集会の重要性は、単に「今の評価を覆す」ことにあるのではありません。
最大の意義は、
👉 事実と解釈が混ざり切る前に、県民が一次情報に触れる機会を確保すること
にあります。
- 知事が何を語るのか
- どの質問にどう答えるのか
- 答えない場合、なぜ答えないのか
これを直接見聞きすることで、県民は「誰かの解釈」ではなく、自分の判断軸を持つことができます。
対話がなければ、選択はまた歪む
県民対話集会を開かず、
- 説明不足のまま
- SNS上の物語だけが拡散し
- 次の選挙を迎えることになれば
前回と同じ構図が、より強化された形で繰り返される可能性があります。
それは、特定の陣営にとって有利・不利という話ではなく、兵庫県の民主主義そのものにとって、取り返しのつかない事態です。
だからこそ、今このタイミングで、県民対話集会が必要なのです。
民主主義において、沈黙は「白紙委任」ではない
声を上げない県民は、
何も考えていないわけでも、何でも受け入れているわけでもありません。
単に、
判断するための材料が与えられていないだけです。
だからこそ、
- 知事が直接語り
- 県民が直接聞き
- その姿勢を共有する
県民対話集会が不可欠なのです。
それは、
「もう対話の段階ではない」と感じる人たちのためではなく、
まだ判断していない人たちのための、最低限の民主的手続きです。






