「既得権益と戦う」とは何か─兵庫県政の未来像が語られないことの危うさ

通常、知事が変わっても「県政の大元」は変わらない

通常、県知事が交代しても、兵庫県の将来像が大きく揺らぐことはありません。
それは、県政の中核が個人ではなく、

  • 法律
  • 行政組織
  • インフラ
  • 制度の継続性

によって支えられているからです。

政策の違いが出るのは、あくまで枝葉の部分です。
補助金の重点、施策の優先順位、スピード感の違い。
県民の生活に「見える将来の景色」は、連続的に続いていきます。

この安定性こそが、行政の価値であり、県民の安全と生活を守る基盤です。

「既得権益と戦う」は、通常の政策変更とは次元が違う

ところが、斎藤知事の支持者が繰り返し口にする「既得権益と戦う」という言葉は、性質がまったく異なります。

行政における既得権益とは何でしょうか。

  • 道路・港湾・上下水道
  • 医療・福祉・教育
  • 防災・災害対応
  • 公共交通・エネルギー

これらは「誰かの利権」である前に、県民の命と生活を支えるインフラそのものです。

もし「既得権益と戦う」と言うのであれば、それは単なる改革スローガンではなく、

行政の連続性に手を入れる
極めて重い宣言

になります。

本来、説明されるべき問い

インフラや制度に影響が及ぶ改革を行うのであれば、本来、以下の説明が不可欠です。

  • どの制度が「既得権益」なのか
  • それを壊すと、誰が困るのか
  • 代替手段は何か
  • 移行期間はどう設計されるのか
  • 失敗した場合、誰が責任を取るのか

そして何より、

既得権益と戦った先に、
兵庫県はどんな姿になるのか

という将来像が示されなければなりません。

未来像を問うと、なぜ沈黙が返ってくるのか

実際に、「斎藤知事が県政を担い続ければ、兵庫県はどんな素晴らしい県になるのですか?」
「斎藤知事の任期満了後も、次の知事も同様のコンプライアンス基準で県政運営されてよいのですか?」

こうした問いを投げかけると、多くの場合、返答はありません。

理由は明確です。

  • 支持が政策ではなく個人への信頼や感情に依存している
  • 「戦う」という物語はあっても、行政設計図が存在しない
  • 将来を語るには、責任を引き受ける覚悟が必要になる

だから、過去の正当化や批判への反論はできても、未来の兵庫県を語る段になると、言葉が止まってしまうのです。

「改革派」を名乗るなら、未来を語らなければならない

通常の県政運営であれば、将来像が抽象的でも大きな問題にはなりません。

しかし、

「既得権益と戦う」

と主張する以上、話は別です。

それは県民に対して、

  • 生活の前提が変わる可能性
  • 行政のルールが変わる可能性
  • 次の知事にも影響する前例

を受け入れてほしいと求める行為だからです。

その説明をせずに支持だけを求めるのは、政治ではなく信仰に近い状態だと言わざるを得ません。

「卑怯」という言葉が当てはまる現実

斎藤知事の支持者が「既得権益と戦う」という抽象的な言葉だけを繰り返し、その中身や兵庫県の将来像を語らない態度は、単なる思考停止ではありません。

これは、民主主義における責任回避という意味で、極めて卑怯な立場です。

抽象語の最大の問題は「責任を引き受けなくて済む」こと

「既得権益」という言葉は非常に便利です。

  • 敵の正体を明示しなくてよい
  • 具体的な制度名を挙げなくてよい
  • 県民生活への影響を説明しなくてよい

それでいて、

  • 正義の側に立っている気分になれる
  • 改革派を名乗れる
  • 説明を求める側を「抵抗勢力」にできる

しかし、これは政治参加として最も無責任な形です。

リスクは県民全体、責任は誰も取らない

もし「既得権益と戦う」政策が、

  • インフラの不安定化
  • 行政の萎縮
  • 有能な職員の流出
  • 弱者切り捨て
  • 災害対応力の低下

といった結果を招いた場合、その影響を受けるのは支持者だけではなく、県民全体です。

それにもかかわらず、

  • 支持者は将来像を語らない
  • 具体策を提示しない
  • 問題が起きれば「知事個人の判断」と距離を取る

これは、

自分は安全圏にいながら、
他人にだけリスクを背負わせる態度

であり、「卑怯」という言葉が最も正確に当てはまります。

説明を求める県民を黙らせる構造

さらに深刻なのは、未来像や制度設計を問う県民に対して、

  • 「既得権益側だ」
  • 「改革に反対する人間だ」
  • 「マスコミに騙されている」

とレッテルを貼る行為です。

これは議論ではありません。
説明責任を果たさないための排除です。

民主主義において最も重要な「問いを発する自由」そのものを、支持者が自ら壊しています。

改革を語る資格とは何か

本気で改革を支持するのであれば、最低限、

  • どんな兵庫県を目指すのか
  • どんな痛みが想定されるのか
  • それでもなぜ必要なのか

を、自分の言葉で語る必要があります。

それができないなら、

支持しているのは改革ではなく
「改革しているという物語」

にすぎません。

未来を語れない支持は、県政を劣化させる

県政はヒーロー物語ではなく、県民の生活を支える社会インフラの運営です。

抽象的な正義の言葉だけで支持し、将来像を語らず、責任も引き受けない態度が広がれば、

  • 説明しない政治
  • 検証されない権力

が当たり前になってしまいます。

それこそが、兵庫県にとって最も危険な「既得権益」なのではないでしょうか。

問われているのは「好き嫌い」ではない

この問題は、斎藤知事が好きか嫌いか、という話ではありません。

問われているのは、

兵庫県の県政は、
誰のために、どんなルールで、
将来に引き継がれていくのか

という、極めて基本的な問いです。

「既得権益と戦う」と言うなら、その先にある兵庫県の姿を、県民に説明する責任があります。

その説明ができない限り、この言葉は改革ではなく、単なる敵役を作るためのスローガンに過ぎません。

おわりに

県政は物語ではなく、生活基盤です。
だからこそ、過去の評価よりも、未来の設計図が問われなければなりません。

未来を語れない支持は、すでに県政の議論から外れています。

兵庫県にとって本当に必要なのは、誰かを守る政治ではなく、県民の暮らしがどう続いていくのかを正面から語る県政です。