知事のSNSが「自撮り」中心になるとき、何が失われるのか― 支持者向け発信と民主主義の緊張関係 ―

近年、政治家がSNSを活用すること自体は珍しくありません。
特に首長クラスの政治家が、日々の活動を写真付きで発信することは、有権者との距離を縮めるという点で一定の意義があります。

しかし、その発信内容が一貫して「自撮り写真」中心となり、政策説明や説明責任に関わる発信が極端に少ない場合、そこには別の問題が生じます。

本稿では、知事による自撮り中心のSNS発信を素材に、それが支持者・有権者・民主主義にどのような影響を与えるのかを考察します。

自撮り投稿が示す「誰に向けた発信か」

公式行事の場で撮影された自撮り写真は、一見すると「公務をこなしている証拠」のようにも見えます。

しかし、構図をよく見ると、

  • 行事全体や参加者ではなく「本人の顔」が主役
  • 政策内容や背景説明はほぼない
  • 投稿の文言も「感謝」「頑張ります」といった抽象的表現が中心

という特徴があります。

これは、
有権者全体への説明ではなく既存支持者へのメッセージである可能性が高い発信です。

支持者向け発信が悪いわけではない

ここで重要なのは、支持者向けの発信それ自体が悪いわけではないという点です。

選挙で選ばれた首長が、自らを支持してくれた人々に感謝を伝えたり、近況を報告したりすることは自然な行為です。

問題は、それ以外の発信がほとんど存在しない場合批判や疑問に向き合う発信が避けられている場合に生じます。

「自撮りを上げておけば支持は維持できる」という前提

自撮り中心の投稿が続くと、次のような前提が透けて見えてきます。

  • 支持者は政策説明を必要としない
  • 難しい話をしなくても、顔を見せれば安心する
  • 感情的なつながりさえ保てば、支持は揺るがない

これは意図的であるかどうかに関わらず、支持者を「考える主体」ではなく、「感情でつながる存在」として扱っているという構造を生みます。

結果として、支持者を対等な市民として信頼していない姿勢に見えてしまうのです。

それは「支持者を見下している」のか

「見下している」という言葉は強く聞こえるかもしれません。

しかし、

  • 説明を省く
  • 判断材料を与えない
  • 不都合な論点を避ける

という行為は、少なくとも、「支持者なら説明しなくてもついてくるだろう」という認識がなければ成立しない発信スタイルです。

支持者が「満足してしまう」ことが政治を歪める

言葉は悪いが、率直に言えば、支持者が自撮り投稿だけで満足してしまっている状態そのものが、兵庫県民全体の幸せを考えない政治を生み出している可能性は否定できない。

本来、支持者とは政治家にとって「無条件で肯定してくれる存在」ではなく、最も厳しい問いを投げかける存在であるはずだ。

  • なぜこの判断をしたのか
  • この政策は誰のためなのか
  • 県民にどんな不利益が生じうるのか

そうした問いを突きつけるのが、本来の意味で政治を理解し、支えようとする支持者の役割である。

説明しない政治が生む「支持者による代理攻撃」

もう一つ見逃してはならないのは、自撮り投稿ばかりで説明をしないこと自体が、支持者に「解釈の余地」を与えすぎているという点である。

政治家が説明をしなければ、支持者は自らの信念や感情に基づいて、

  • 事実を都合よく補完し
  • 批判を悪意として解釈し
  • 自分なりの「正義」を作り出す

ようになる。

その結果、本来は冷静に事実を踏まえて議論している民主主義に根差した常識的な市民が、「敵」「反対派」「アンチ」として攻撃される構図が生まれる。

政治家が語らないほど、支持者は過激になる

これは偶然ではない。

  • 政治家本人は説明責任を回避し
  • 曖昧な発信だけを続け
  • 正面からの反論や説明をしない

一方で、支持者が代わりに、

  • 勝手な解釈で正当化し
  • 事実を歪め
  • 批判者を攻撃する

この構図が成立すると、政治家は自分の手を汚さずに、批判を封じることができる

つまり、説明しない政治は、支持者を「盾」や「攻撃役」として機能させる政治へと変質していく。

利用される支持者という存在

の構造の中で、支持者はどうなるのか。

支持者は、

  • 自分が正義の側に立っていると思い
  • 知事を守っているつもりになり
  • 批判者を攻撃することで存在意義を感じる

しかし実際には、

  • 正確な事実を共有されず
  • 判断材料を与えられず
  • 政治家本人は一切説明責任を果たさない

という状況に置かれている。

この意味で、支持者は政治的に「利用されている」状態に近いと言わざるを得ない。

これは支持者の問題ではなく、政治の問題

重要なのは、これは「支持者の知性」や「民度」の問題ではないという点だ。

政治家が、

  • 説明を尽くさず
  • 事実を整理せず
  • 言葉による責任を放棄したとき

その空白を、支持者の感情や解釈が埋めてしまうのは、ある意味で必然である。

責任を問われるべきは、支持者をそのような立場に追い込んでいる政治のあり方だ。

民主主義にとって最も危険な状態

民主主義において最も危険なのは、

  • 権力者が語らず
  • 支持者が代わりに語り
  • 事実よりも感情が拡散され
  • 常識的な市民が攻撃される

という状態である。

これは、民主主義が「議論の制度」から「陣営同士の感情対立」へと変質している兆候でもある。

緊張関係のない支持は、政治を劣化させる

しかし、自撮り写真を投稿し、それに称賛の言葉が並ぶだけの関係性には、健全な緊張感が存在しない

  • 説明がなくても問題視されない
  • 判断の根拠を示さなくても支持が続く
  • 批判は「敵の攻撃」として処理される

この状態が続けば、政治家にとって「県民の幸せを考える」よりも「支持者の感情を満たす」ことが優先されていく。

それは、意図せずとも、政治の目的が県民全体から、一部の支持層へと縮小していく過程でもある。

支持者が甘くなると、政治家は必ず甘える

政治家が説明を省くのは、説明しなくても支持が維持できると学習した結果である。

つまり、この構造は政治家だけの問題ではなく、支持者側が政治家を甘やかしてしまっている構図でもある。

支持者が、

  • 「頑張っている姿」を見るだけで満足し
  • 問題提起をしなくなり
  • 不都合な事実に目を向けなくなったとき

政治は必ず、県民全体の利益から遠ざかっていく。

本当に政治家を支えるとはどういうことか

本当に政治家を支えるとは、

  • 無条件に称賛することではない
  • 批判を封じることでもない
  • 「信じているから何も言わない」ことでもない

むしろ、

  • 説明を求め
  • 判断の妥当性を問い
  • 誤りがあれば修正を促す

という、厳しさを伴った関係性を保つことだ。

支持者が政治家に緊張を与えなくなったとき、その政治は、支持者のためですらなくなり、結果として兵庫県民全体の幸せを損なう方向へ進んでしまう。

民主主義にとって何が問題なのか

民主主義において重要なのは、

  • 有権者が判断できる材料を持つこと
  • 政治家が説明責任を果たすこと
  • 支持・不支持に関わらず議論が成立すること

です。

自撮り中心のSNS運用は、

  • 政治を「人物応援」に近づけ
  • 政策や責任の議論を後景に追いやり
  • 批判を「敵意」として処理する空気を作る

危険性をはらんでいます。

これは短期的には支持者の結束を強めるかもしれませんが、長期的には政治への信頼そのものを弱体化させる結果につながります。

本当に支持者を大切にするなら

もし支持者を「対等な市民」として尊重するなら、政治家がすべきことは明確です。

  • なぜ批判が起きているのかを説明する
  • 自身の判断の根拠を言葉で示す
  • 誤りがあれば修正する

それを理解する力が支持者にあると信じることこそが、本当の意味で支持者を大切にする姿勢です。

おわりに

自撮り写真そのものが問題なのではありません。
問題なのは、それが説明の代替になってしまっていることです。

政治家が「顔を見せること」で支持を維持しようとする社会は、いずれ「言葉で説明する政治」を失います。

その違和感に気づくこと自体が、民主主義を健全に保つための第一歩ではないでしょうか。

自撮りしか上げず、説明をしない政治は、支持者を安心させるどころか、

  • 事実を歪めさせ
  • 勝手な解釈を広げ
  • 市民同士を分断させる

結果を生む。

その意味で、斎藤知事のSNS運用は、支持者を守っているのではなく、支持者を都合よく使い、民主主義の矢面に立たせていると評価されても不思議ではない。