定例記者会見は誰のための場か―「記者の個人的見解」という答弁が示す、説明責任の放棄―
目次
- 1 問題の本質は「言い方」ではない
- 2 「誘客」は本当に牡蠣業者支援になるのか
- 3 「記者の個人的見解」というラベリングの危険性
- 4 記者会見は「知事が勝つ場」ではない
- 5 見えていないのは「記者」ではなく「県民」
- 6 では、斎藤知事はどこで県民に説明するのか
- 7 議会でも説明しない会見でも説明しない
- 8 本来の説明責任の構造
- 9 SNSや広報は「説明」ではない
- 10 県民不在が露呈している
- 11 議会でも、会見でも説明しないのなら残された道は「県民との直接対話」しかない
- 12 本来、直接対話は「最後の手段」ではない
- 13 県民との直接対話とは何か
- 14 逃げ続ければ、さらに信頼は失われる
- 15 問われているのは「覚悟」
- 16 県民との直接対話を行うかどうかは、単なるイベントの開催可否ではありません。
- 17 結論
問題の本質は「言い方」ではない
12月23日の年内最後の定例記者会見で、斎藤元彦知事が繰り返した
「記者さんの個人的な見解として承っておきます」
という答弁は、単なる言葉遣いの問題ではありません。
この発言の本質は、「質問に含まれる政策的・財政的論点そのものを、回答対象から外す」という姿勢にあります。
記者が問うたのは、
- ふるさと納税で集めた寄付金が
- どのような経路で
- 誰に、どれだけ経済的に還元されるのか
- 不漁で危機に瀕している牡蠣養殖業者の支援として合理性があるのか
という、県民にとって極めて正当な行政チェックでした。
「「すごい挑発ですね」と記者怒り…斎藤知事 年内最後の会見でも批判噴出、“逃げ回答”繰り返し場内では怒号も」
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b7d76fc0cdefece9236b04be1363577d0ef542d(出典:女性自身 2025年12月23日)
「誘客」は本当に牡蠣業者支援になるのか
今回の「播磨灘の牡蠣応援プロジェクト」は、
- コンサルタントへの委託
- セミナー開催
- 旅行会社向けモニターツアー
- 視察・体験・購入行動
といった間接的施策が中心です。
しかし記者は、こうした施策の構造上、
- 資金の大半が
- コンサル会社
- 旅行会社
- 運営主体
へ流れ、
- 地元や牡蠣業者に落ちるお金は限定的ではないか
という極めて具体的かつ政策的な疑問を投げかけています。
これは「個人的見解」ではなく、公金・寄付金の使途として妥当かどうかという行政監視そのものです。
「記者の個人的見解」というラベリングの危険性
斎藤知事の答弁が問題なのは、質問内容を「個人の意見」と位置づけることで、
- 事実関係の説明
- 政策効果の検証
- 代替案の提示
といった説明責任のプロセスそのものを拒否している点です。
この姿勢が常態化すれば、
- どんな不都合な質問も
- 「個人の見解」として退け
- 行政は一切説明しなくて済む
という構造が成立してしまいます。
これは、民主主義の根幹である「権力への質問」を制度的に空洞化させる行為です。
記者会見は「知事が勝つ場」ではない
今回、注意された後も斎藤知事が
「個人的な見解として承っておきます」
と“応戦”した場面は、説明の場を、感情的な応酬やマウンティングの場に変えてしまった象徴的瞬間でした。
定例記者会見は、
- 知事が記者を論破する場でも
- 質問をかわして勝ち逃げする場でもありません。
県民に代わって問われた疑問に、知事が説明する場です。
その基本を取り違えた態度が、他の記者からの怒号や、幹事社による注意を招いたのは当然と言えるでしょう。
見えていないのは「記者」ではなく「県民」
この会見で最も深刻なのは、斎藤知事の視野から県民の存在が完全に抜け落ちていることです。
- 牡蠣が8割へい死した現場
- 廃業の危機に立つ養殖業者
- 支援策の中身を知りたい県民
その声に向き合う姿勢があれば、「誘客がどう支援につながるのか」を丁寧に説明できたはずです。
それをせず、「個人的見解」と切り捨てる態度は、説明責任の放棄にほかなりません。
では、斎藤知事はどこで県民に説明するのか
議会でも、会見でも説明しないという異常
兵庫県議会においても、山口議長は次のように異例の苦言を呈しています。
「当局各位には真摯に対応いただいた一方で、一部議論が深まらなかった側面があったことは否定できない。議会として決して本意ではないことを申し添えておく」
これは、議会という正式な民主的統制の場においても、十分な説明がなされなかったことを、議長自らが認めた発言です。
つまり現状は、
- 議会では
→ 議論が深まらない
→ 議長が苦言を呈するほど説明が不足している - 定例記者会見では
→ 「記者の個人的見解」として質問を退け
→ 具体的説明を拒否する
という状況にあります。
「斎藤知事へ議長が苦言「議論深まらず」 兵庫県議会閉会のあいさつで」
https://www.asahi.com/articles/ASTBQ3CJ7TBQPIHB001M.html(出典:朝日新聞 2025年10月22日)
議会でも説明しない会見でも説明しない
となれば、当然浮かぶ問いは一つです。
では、斎藤知事は一体、どこで県民に説明するつもりなのでしょうか。
本来の説明責任の構造
民主主義において、知事の説明責任は
- 議会
─ 県民の代表による質疑・討論 - 定例記者会見
─ メディアを通じた県民への説明
この二本柱で果たされるものです。
その両方で説明がなされないとすれば、説明責任を果たす制度的な場が、事実上消滅していることになります。
SNSや広報は「説明」ではない
仮に、
- SNS投稿
- 県の広報資料
- 一方的な発信
があったとしても、それは説明責任の代替にはなりません。
なぜなら説明責任とは、
- 疑問を受け
- 不都合な点も含めて
- 双方向で説明すること
だからです。
質問を遮断し、「個人的見解」「これまで答えた通り」と切り捨てる姿勢は、説明ではなく、回避です。
県民不在が露呈している
議会でも、会見でも説明しない――
この一貫した姿勢が示しているのは、
- 記者を見ていない
- 議会を見ていない
以前に、県民そのものが視野から消えているという事実です。
記者の質問は記者のためではありません。
議会の質疑は議員のためではありません。
その先にいるのは、政策の影響を直接受ける県民です。
議会でも、会見でも説明しないのなら残された道は「県民との直接対話」しかない
議会でも説明しない。
定例記者会見でも説明しない。
この状況が事実である以上、「では、どこで県民に説明するのか」という問いに対する答えは、県民との直接対話しか残されていません。
これは感情論でも、過激な主張でもありません。
説明責任という制度的義務から導かれる、必然的な結論です。
本来、直接対話は「最後の手段」ではない
本来であれば、
- 議会での十分な質疑
- 会見での丁寧な説明
これが機能していれば、県民との直接対話が必要になる場面は限定的です。
しかし、その二つが同時に機能していない以上、民主主義の回路を回復させるためには、知事が県民の前に直接立つ以外の選択肢はありません。
県民との直接対話とは何か
ここで言う「直接対話」とは、
- 一方的な演説
- 事前に質問を選別したタウンミーティング
- 批判を排除した集会
ではありません。
必要なのは、
- 県民が自由に質問でき
- 不都合な質問も含めて
- 知事自身の言葉で説明する
双方向の対話の場です。
逃げ続ければ、さらに信頼は失われる
説明を避けるほど、
- 記者会見は荒れ
- 議会は形骸化し
- 不信は増幅する
という悪循環が続きます。
その結果、最も傷つくのは、政策の中身よりも県政そのものへの信頼です。
問われているのは「覚悟」
県民との直接対話を行うかどうかは、単なるイベントの開催可否ではありません。
それは、
- 批判から逃げない覚悟があるのか
- 説明する責任を本当に自覚しているのか
- 県民を統治の対象ではなく、主体として見ているのか
を問う知事の姿勢そのものです。
県民との直接対話を行うかどうかは、単なるイベントの開催可否ではありません。
それは、
- 批判から逃げない覚悟があるのか
- 説明する責任を本当に自覚しているのか
- 県民を統治の対象ではなく、主体として見ているのか
を問う知事の姿勢そのものです。
結論
議会でも説明しない。
会見でも説明しない。
それでも県政を前に進めたいと言うのであれば、知事自らが県民の前に立ち、直接説明するしかありません。
県民との直接対話は、知事にとって「負担」ではなく、説明責任を回復する最後の機会です。
この機会から逃げるなら、斎藤県政は「説明責任を果たす意思がない」と自ら宣言することになります。






