なぜ、県議会議員は街頭に立つべきなのか―「お行儀の良い沈黙」が民主主義を壊すとき

兵庫県では、知事に対して第三者委員会が違法行為を認定しました。
それにもかかわらず、県議会は明確な意思表示をせず、個々の議員も街頭に立って説明する姿をほとんど見せていません。

「議会は決議をした」「選挙で決まったことだ」「県民の判断に委ねる」
――こうした言葉は一見、民主的に聞こえます。

しかし本当にそうでしょうか。

本稿では、なぜ今こそ県議会議員が街頭に立つべきなのかを、市民の視点から整理します。

街頭に立つことは「扇動」ではなく「説明責任」

まず誤解してはいけない点があります。

街頭に立つことは

  • 世論を煽ることでも
  • 感情を操作することでも
  • 対立を激化させることでもありません。

本来の意味はただ一つです。

自分が下した政治判断を、有権者に説明すること

これは民主主義における最低限の責務です。

不信任・違法認定は「議会だけの出来事」ではない

議会で行われる不信任決議または不信任を見送るなどの意思表示は、単なる内部手続きではありません。

それは、

  • 県民から預かった権限を使って
  • 県民の代表として
  • 「この知事は適切か否か」を判断する行為

です。

つまり、

議会が沈黙すれば、県民は判断材料を奪われる

ということになります。

「県民の判断に委ねる」は、責任放棄になり得る

よく聞かれる言葉があります。

「最終的には県民の判断」

一見正しく聞こえますが、これは半分しか正しくありません。

なぜなら

  • 県民は行政文書を自由に調査できない
  • 内部資料や法的評価にアクセスできない
  • 事実関係を整理する立場にない

だからこそ、

事実を把握できる立場にある議員が、説明する義務がある

のです。

説明せずに「判断は県民に」と言うのは、

地図を渡さずに「好きな道を選べ」と言うのと同じ

です。

議員が街頭に立たないと、誰が語るのか

議員が沈黙したとき、何が起こるでしょうか。

  • SNSの切り取り
  • 極端な支持・不支持の声
  • 事実と意見が混ざった言説

これらが事実上の世論形成を担ってしまいます。

結果として、

  • 冷静な中間層は黙り
  • 声の大きい一部だけが目立ち
  • 社会の分断が深まる

これは民主主義にとって健全とは言えません。

「お行儀の良い議会」がもたらす最大の問題

今の兵庫県議会は、法的手続きは踏んでいます。
しかし政治としては、あまりにも「お行儀が良い」。

  • 対立を避ける
  • 波風を立てない
  • 次の選挙を意識して沈黙する

その結果どうなるか。

違法認定されても、政治的責任が問われない

という前例が作られてしまいます。

これは将来、

  • 別の知事
  • 別の自治体
  • 別の不祥事

にも必ず影響します。

街頭に立つとは「結論を押し付けること」ではない

重要なのはここです。

議員が街頭に立つとは、

  • 「辞めろ」と叫ぶことでも
  • 「支持しろ」と迫ることでもありません。

本来やるべきことは、

  • どんな事実があったのか
  • なぜ自分は問題だと考えるのか(あるいは問題ないと考えるのか)
  • 県政にどんな影響があるのか

を、自分の言葉で語ることです。

支持・不支持は分かれて構いません。
沈黙だけが、最も無責任なのです。

議員が街頭に立つことは、県民を信頼する行為

説明するということは、

県民は理解できる存在だと信じること

でもあります。

逆に言えば、説明しない政治は、

「言っても分からないだろう」
「面倒だから触れないでおこう」

という、県民への不信の表れでもあります。

県議が街頭に立てば、知事の「テンプレ会見」は通用しなくなる

県議会議員が街頭に立ち、積極的に県民へ説明することには、もう一つ重要な効果があります。
それは、斎藤知事が記者会見で繰り返している「テンプレート回答(定型句)」を、押し通しにくくすることです。

なぜ今、テンプレ回答が成立してしまうのか

現在の会見では、「重く受け止める」「適切・適法」「総合的に判断」「最終的には司法」といった抽象的な言葉が、事実上の“回答”として成立してしまっています。

これは知事の話術が巧みというより、会見の外側で論点が固定されていないことが大きいと考えられます。つまり県政の問題が何なのかが明確にならず、論点があちこちに飛ぶと言うことです。

つまり、会見が「説明の場」ではなく、単なる「儀式」に近くなっている。
だから、定型句を繰り返すだけでも乗り切れてしまうのです。

県議が街頭で説明すると、会見の前提が変わる

しかし、県議が街頭や地域集会などで、

  • 第三者委員会が何を「違法」と認定したのか
  • どの事実認定が争点なのか
  • 知事が説明していない点はどこなのか

を、県民に向けて分かりやすく示し始めると、会見の前提が変わります。

言い換えるなら、会見の争点が「支持・不支持」「印象」「好き嫌い」から、**具体的な論点(事実・根拠・説明責任)**へと引き戻されます。

一番効くのは「論点の固定化」

政治家が最も嫌がるのは、同じ争点が繰り返し突きつけられる状況です。

県議が街頭で論点を整理し、県民と共有すれば、記者会見でも質問が収斂していきます。
例えば次のような問いが、会見で何度も繰り返されるようになります。

  • 「第三者委員会のどの事実認定が誤りなのか」
  • 「それを否定できる証拠は何なのか」
  • 「司法判断と言うなら、なぜ司法に持ち込まないのか」

こうした問いが固定化されると、「適切・適法」「総合的に判断」という抽象語は、回答として成立しにくくなるのです。

副次的効果:記者・職員・県民の行動も変わる

県議が街頭で説明を始めると、知事だけでなく周囲も変わります。

  • 記者が「議会や○○議員がこう指摘されています」と、公的根拠を持って質問できる
  • 行政内部でも「説明できない状態」を維持するコストが上がる
  • 県民の側も「抽象的な言い逃れ」を見抜きやすくなる

こうした変化が積み重なれば、テンプレ回答を繰り返すだけでは、政治的に持たなくなっていきます。

知事も議会も説明しないから、議論が混乱する

現在の兵庫県政を巡る混乱の本質は、「賛成か反対か」「支持か不支持か」ではありません。

知事も、県議会も、県民に対して十分な説明をしていない
――この一点に尽きます。

知事は「結論」だけを述べ、理由を語らない

斎藤知事は会見で、

  • 「適切・適法だった」
  • 「重く受け止めている」
  • 「最終的には司法の判断」

といった結論や姿勢は繰り返しますが、

  • どの事実認定が誤りなのか
  • どの証拠で第三者委員会の判断を否定できるのか

といった理由の説明は行っていません。

これは説明責任を果たしているとは言えず、県民は判断の材料を与えられていない状態です。

一方で、議会も「沈黙」という形で説明を放棄している

しかし問題は、知事だけではありません。

県議会もまた、

  • 不信任や意思表示の背景
  • なぜ今は強い対応を取らないのか
  • 何を問題と考え、何を問題としないのか

を、県民に対してほとんど説明していません。

結果として、

知事は抽象語で逃げ、
議会は沈黙で逃げている

という構図が生まれています。

説明がない政治は「議論百出」を生む

知事も議会も説明しない状況では、どうなるでしょうか。

  • 公式な論点整理が存在しない
  • 権限を持つ主体が語らない
  • 事実と評価が切り分けられない

その空白を埋める形で、

  • SNSの断片的な情報
  • 感情的な主張
  • 極端な解釈

が飛び交い、議論百出の状態になります。

これは県民のレベルが低いからではありません。
説明すべき立場の人間が説明しないから、混乱が生じているのです。

本来、政治が果たすべき役割

民主主義における政治の役割は、

  • 意見を統一することでも
  • 反対派を黙らせることでもありません。

事実を整理し、争点を明確にし、
県民が自分で判断できる状態を作ること

です。

今の兵庫県では、その役割が果たされていません。

街頭説明は、民主主義を機能させる「唯一の近道」

県議が街頭に立って説明することは、対立を煽る行為ではありません。
むしろ、議会が県民の代表として、論点を整理し、判断材料を提供することです。

その結果として、知事の会見も「儀式」から「説明の場」へ戻らざるを得なくなる。
私は、ここに大きな意味があると考えます。

知事が説明しない。
議会も説明しない。

その結果、

  • 県民同士が言い争い
  • 支持・不支持だけが先鋭化し
  • 本来問われるべき「違法認定への向き合い方」が置き去りになる

この状況を変えられるのは、権限と情報を持つ政治側だけです。

だからこそ、

知事は具体的に説明する責任があり、
県議会議員は街頭に立って説明する責任がある

そう言わざるを得ません。