県民対話集会を求める声に斎藤支持者の沈黙が広がる理由
2026年1月14日の、定例会見で質問する記者を「避難」する投稿を行っている斎藤知事の支持者に対し、
「県民対話集会の開催を求めます」と呼びかけたところ、25件の発信にもかかわらず、ほとんど反応が返ってこない状況が続いている。今のところ返信は1件のみです。
返ってきた数少ない返信の一つは、次のようなものだった。
「県民は2024年11月の兵庫県知事選挙で明確に意思を示しました。
これ以上の意思決定はありません」
一見すると民主主義を尊重しているように見えるこの主張だが、果たして本当にそうだろうか。
目次
選挙は「白紙委任」ではない
まず、確認しておきたい基本がある。
選挙で示されるのは
「この人物を知事として任せるかどうか」
という意思であって、
「任期中のすべての判断を無条件で是認する」
という白紙委任ではない。
民主主義において、選挙はゴールではなくスタートである。
選挙後も、行政権力には次の責務が継続的に課される。
- 説明責任
- 検証への応答
- 県民との対話
これらを「選挙で決まったから不要」とするなら、それは民主主義ではなく、権威主義に近づく。
県民対話集会とは「抗議」ではない
県民対話集会と聞くと、街頭での抗議活動や政治的パフォーマンスを想像する人もいるかもしれない。
しかし、ここで求められているのはそれとは全く異なるものだ。
県民対話集会とは、
- 県民が質問する
- 知事(または県政側)が説明する
- 互いの立場を可視化する
という、極めて穏健で制度的な場である。
違法性もなく、排他性もなく、暴力性もない。
あるのは「質問」と「説明」だけだ。
なぜ県民対話集会には斎藤支持者の反論が集まらないのか
今回の沈黙は偶然ではない。
県民対話集会という言葉が持つ構造的な強さが理由だ。
① 否定すれば民主主義そのものを否定することになる
県民が質問し、説明を求める場を否定することは、
- 県民の知る権利を否定し
- 行政の説明責任を否定し
- 民主主義の前提を否定する
ことにつながる。
そのため、正面から「不要だ」と言えない。
② 妨害する正当な理由が存在しない
抗議活動であれば「迷惑」「治安」「秩序」といった言い訳も成り立つ。
しかし、県民対話集会にはそれが使えない。
妨害すれば、妨害した側が一方的に「説明から逃げた側」「知事の説明責任を否定した側」になる。
これは支持者にとって致命的だ。
③ 「説明できない」ことが露呈してしまう
最も大きな理由はここにある。
SNSでは、
「知事は正しい」
「問題はない」
「適法・適切だ」
と断言することはできる。
しかし、県民対話集会では、
- なぜ適法なのか
- どの事実認定が正しいのか
- 第三者委員会のどこが誤りなのか
を、第三者の前で質問に耐えながら説明する必要がある。
この場からは、
- 罵倒
- レッテル貼り
- 話題逸らし
では逃げられない。
「日本の宝」なら説明できるはずではないか
一部の支持者は、斎藤知事を
「日本の宝」
とまで称している。
であるならば、なおさらである。
本当に正しい政治、優れた知事であるなら、県民の前で質問に答え、説明することは、何一つ恐れることではない。
それができないとすれば、問題は知事ではなく、その評価が「信仰」に変質していることにある。
なぜ「日本の宝」と称えながら、県民対話集会を避けるのか
斎藤知事の支持者の中には、「さいとう知事は日本の宝だ」とまで強い言葉で評価する人が少なくない。
にもかかわらず、県民対話集会の開催を求める声に対しては、賛成も反対もせず、沈黙する例が目立つ。
この態度は、一見すると矛盾しているように見える。
本当に「宝」と信じているのであれば、県民の前で説明する場を歓迎してもよさそうだからだ。
しかし、この矛盾は、斎藤支持者の心理構造を考えると、むしろ自然な反応だと言える。
「正しいと信じている」ことと「説明できる」ことは別である
多くの支持者は、斎藤知事について「正しい」「問題はない」「適法・適切だ」と確信しているように見える。
ただし、その確信の多くは、
- 法的論点を精査した結果
- 第三者委員会の指摘を一つ一つ検証した結果
として形成されたものではない。
実際には、「改革派に見える」「叩かれている側だから正しい気がする」「既存の政治を壊してくれそうだ」といったイメージや対立構図に支えられている場合が多い。
そのため、県民対話集会のように、
・具体的な事実
・法的評価
・説明の整合性
を問われる場に立つことは、支持者にとって心理的な負担が大きい。
県民対話集会は「信仰」を「検証」に変える場である
県民対話集会は、知事を糾弾する場ではない。
しかし同時に、称賛だけを受け取る場でもない。
県民からの質問に対し、
・なぜその判断が適法なのか
・第三者委員会のどこが誤りなのか
・どの事実認定を根拠にしているのか
を説明する必要が生じる。
これは、支持者にとって「信じているかどうか」ではなく「説明できるかどうか」が問われる状況を生み出す。
言い換えれば、県民対話集会は、支持を“信仰”の状態から“検証”の対象へと引き戻す装置なのである。
斎藤支持者の沈黙は斎藤知事の「違法の自覚」ではなく「不利になる直感」の表れ
では、支持者は内心で「斎藤知事は違法な行為をしている」と考えているのだろうか。
必ずしもそうではない。
多くの場合、
「違法だ」とまでは思っていないが、「細かく説明を求められると困る」「県民の前で議論すると不利になる気がする」という直感的な感覚を持っている。
これは罪の自覚というより、説明責任を伴う場に立つことへの予感的な不安である。
沈黙という「最も合理的な選択」
県民対話集会の開催要求に対して、支持者が取り得る選択肢は多くない。
- 賛成すれば、説明責任が現実のものになる
- 反対すれば、民主主義や県民の知る権利を否定することになる
- 触れなければ、何も失わない
この中で、最もコストが低いのが「沈黙」である。
そのため、県民対話集会という言葉が出た瞬間に、議論が止まり、反応が途絶える現象が起きる。
斎藤支持者の沈黙は答えである
民主主義において、沈黙は中立ではない。
説明責任を求められている場面での沈黙は、「説明できない」という事実を静かに可視化する。
県民対話集会を求める声に対する沈黙は、知事個人への評価というよりも、支持のあり方そのものが検証に耐えられるかどうかを示している。
この沈黙が続く限り、県民対話集会の必要性は、ますます明確になっていく。
沈黙は偶然ではなく「可視化された答え」
25回の呼びかけに対し、返ってきたのが「選挙で終わり」という一言だけ。
これは反論ではなく、議論の打ち切り宣言である。
しかし、民主主義において沈黙は中立ではない。
説明責任を伴わない沈黙は、「説明できない」という事実を可視化する。
おわりに
県民対話集会を求める声は、誰かを攻撃するためのものではない。
- 県政を理解したい
- 判断材料を持ちたい
- 次の選択を自分で考えたい
という、極めて健全な民主主義の欲求である。
それに沈黙で応える政治、沈黙で応援する支持のあり方が、本当に兵庫県の未来にとって望ましいのか。
その問いは、今も、静かに、しかし確実に、県民の前に残り続けている。





